遊佐長教
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遊佐 長教(ゆさ ながのり、延徳3年(1491年) - 天文20年5月5日(1551年6月8日))は河内国の守護代。畠山氏の重臣。遊佐氏はもともと出羽国の住人である。後に畠山氏の歴代の家臣となった。庶流には能登守護である畠山氏家臣の遊佐氏がいる。
遊佐信教の父で、主家の傀儡化を目指して木沢長政と結託して主君・畠山稙長を排除し、続いて立てた畠山長経をも暗殺した。しかしやがて、長政と主導権をめぐって対立し、1542年に三好長慶と組んで長政を河内国分高井田で討ち、河内の実質上の戦国大名となる。
三好長慶には同盟を結んだ際に、息女を長慶の正室にしており、長慶の岳父として三好政権に内部でも大きな発言力を有したが、 天文20年5月5日(1551年6月8日)に何者かによって暗殺された。
先見性に富んだ野心家で、力量も十分にあり、三好政権の一翼を担っていただけに、三好長慶にとっても痛い死であった。