足利義維
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足利 義維(あしかが よしつな、1509年(永正6年) - 1573年11月2日(天正元年10月8日)、義賢・義維・義冬と改名)は、室町幕府11代将軍足利義澄の次男・10代将軍足利義稙の養子・14代将軍足利義栄の父。堺公方・平島公方。母は斯波氏。法名は、慶林院実山道詮。
阿波国守護細川之持の庇護の元、成長する。 1527年、桂川の戦いで三好元長・細川晴元らと、兄の12代将軍足利義晴を擁する細川高国を打ち破り近江国に放逐し、堺に留まったため、堺公方と呼ばれるようになる。 1532年、後見人の三好元長が細川晴元により自害に追い込まれると、阿波国の天竜寺の荘園平島荘に引き上げた。 この5年間は堺大樹と呼ばれ、実質上政治の中枢を担ったと考えられている。
1566年、松永久秀らによる足利義輝謀殺後、久秀に擁立されて将軍となった嫡子義栄を後見する。ついで織田信長に擁された足利義昭との決戦を摂津国にて用意するも、その最中に義栄が病没し、再度阿波に引き上げその生涯を閉じた。
[編集] 子孫
平島公方はその後、義助、義種、義次、義景、義辰、義武、義宣、義根と続くが、阿波の領主、蜂須賀氏からは常に冷遇され続け、これについに9代公方義根が不満を爆発させ、1805年についに先祖が政治を執った京都に去り、平島姓から足利姓に復す。明治維新後に爵位を願い出たが徳島藩から去っていたため、古河公方系統の旧喜連川氏のように爵位を賜る事が出来なかった。
義維から数えて13代目の子孫にあたる足利進悟は2002年に95歳で永眠(歴史系雑誌歴史読本の有名人の子孫のコーナーにも登場したこともある)、現在は14代目の子孫で九州保健福祉大学の教授である足利義弘が足利家28代(尊氏から数えて)当主とされている。