堺公方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堺公方(さかいくぼう)は、室町幕府12代将軍足利義晴の弟足利義冬(後の義維)を戴き、細川晴元や三好元長(海雲)らが大永7年(1527年)-享禄5年(1532年)、堺の顕本寺を本拠にして京都はじめ畿内を支配した政権。
[編集] 成立
1527年、幕府側の管領・細川高国は三好元長らの軍に敗北し、12代将軍義晴と管領らは京都を脱出し、坂本に逃れた(この時点で実質的に室町幕府の支配機構は崩壊した)。代わって、高国と管領職を争っていた細川晴元・三好元長らが堺を拠点に京都への支配を行うようになり、京都の公家や権門から「堺公方」・「堺大樹(さかいたいじゅ)」と呼ばれた。奉公人・管領代・山城守護代・山城郡代を駆使する官制上の頂点にあり、将軍跡目のように君臨した。
[編集] その後
堺公方内部は、三好元長のほか山城を握っていた柳本賢治ら摂津の有力国人衆との合従連衡政権であった。このため、三好海雲が柳本賢治と山城守護代をめぐって争い、次いで細川高国を滅ぼしたが、摂津国人衆らと阿波国人衆との権力闘争が激化。
摂津国人衆は一向一揆勢と結び、堺に対抗。享禄5年6月20日(1532年)、一向一揆勢が顕本寺を包囲し、三好元長は自殺、堺の政権は崩壊した。その後、足利義冬は、もとの阿波国平島に戻る。
[編集] 「堺幕府」論
歴史家の今谷明が、朝廷の改元(大永→享禄)を無視した文書が存在することに注目。公文書の発給状況を分析し、当時の室町幕府は崩壊状態にあり、堺公方と呼ばれた堺の政権は事実上の「堺幕府(さかいばくふ)」である、と論じた(『室町幕府解体過程の研究』)。
しかし、義維は征夷大将軍の宣下を受けておらず、堺の政権も地方政権にすぎないなど異論が多い。