細川信良
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細川信良(ほそかわ のぶよし、天文17年(1548年) - 文禄元年(1592年))は戦国時代の細川氏の本流である「京兆(けいちょう)細川氏」の末流。幼名は六郎。名は「昭元」とも。管領細川晴元の子、母は六角定頼娘。正室は織田信長の妹お犬の方。嫡男に細川範頼、娘は秋田実季室。
1561年に父晴元が三好長慶と和睦した際に人質となる。隠居、病没した父の跡を継ぐものの、勢力は取り戻せず、将軍足利義昭を伴なって上洛した織田信長に属する。このころ義昭より一字拝領を受けて「昭元」と名乗る。信長の勢力下で室町幕府対策として利用され1575年(天正3年)には右京大夫に任じられ、京兆家を継ぐ。翌年には信長の妹を娶り、蹴鞠の相手を務めるなどした。その一方で武将としての才能には乏しかったらしく、1572年には摂津で本願寺の下間頼龍・下間頼純と交戦して大敗している。本能寺の変後は羽柴秀吉に属した。