米田建三
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米田 建三(よねだ けんぞう、1947年10月5日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(3期)。帝京平成大学教授。
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[編集] 経歴
長野県松本深志高等学校を経て横浜市立大学商学部卒業後、徳間書店に入社。アサヒ芸能の記者などを務める。その後横浜市議会議員、建設大臣秘書官などを歴任。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に自民党より出馬し初当選。1994年4月、自由党(メンバー 太田誠一・新井将敬・柿沢弘治・佐藤静雄・山本拓・高市早苗)に参加するため自民党を離党。連立与党の一員となる。その後海部俊樹を代表とする自由改革連合を経て、新進党結党に参加。
新進党当時は小沢一郎の忠実な側近で、1995年12月に小沢が党首に就任すると党首補佐の地位を得るが、やがて小沢とは疎遠になっていった。1996年、新進党から第41回衆議院議員総選挙に出馬し比例単独候補として再選。自民党幹事長の加藤紘一と橋本派の実力者で党幹事長代理の野中広務からの引き抜きに応じ、10月31日に新進党に離党届を提出。11月19日に新進党から除名処分となる。
1997年5月、自民党に復党。江藤・亀井派に所属する。これがきっかけとなって選挙制度が改正され比例代表選出議員の政党間移動は禁止される。2000年、自民党から第42回衆議院議員総選挙に出馬し比例単独候補として3選。内閣府副大臣、拉致議連副会長などの要職を務める。北海道開発庁政務次官時に鈴木宗男に接近し、北海道にも事務所を構え鈴木宗男を総理にする会の世話人となるが、鈴木宗男逮捕時には一切の関係を否定。
2003年8月、コスタリカ方式で神奈川5区から出馬する約束だったが突如不出馬を表明、翌9月、山梨1区に落下傘出馬する事が決定。2003年11月、自民党から第43回衆議院議員総選挙に出馬。10年ぶりの選挙区出馬となるが落選。 その後、帝京平成大学教授に就任し、政治・外交・安全保障・災害など、あらゆる分野における時事問題を講義の内容として扱っている。また、テレビや論壇で活躍中。
2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙には、解散当初全てのマスメディアが自民党の敗北を予想する中、出馬をしなかった。
2007年夏に行われる参議院選挙に自民党から比例区での出馬を目指しているが、2006年10月時点において、いまだ自民党から公認は得られていない。公認の遅れは今後の選挙資金集め等においてマイナスの影響を与えると思われる。
8月29日自民党本部で開かれた「米田建三山梨後援会設立準備会」では安倍晋三官房長官が激励に訪れた。
[編集] 政策
- 「タカ派」として知られ、拉致議連副会長を務め北朝鮮に制裁措置をとるべきだと主張している。また中国に対しても強硬で、宥和的な外務省や川口順子元外務大臣の外交方針を批判している。外国人参政権問題でも「国の運命に最終的な責任を持ち得ない外国籍の方に参政権を与えるべきではない」と反対している。
- 人権救済やプライバシー保護を名目とした言論弾圧につながりかねないとして人権擁護法案の危険性を早くから訴えてきた。
- 首相による靖国神社への参拝を強く支持し、自らも毎年参拝を欠かさない。
- 人権擁護法案や地方参政権に反対の立場から、それらを強く主張する公明党への警戒感は強く、公明党の影響力をそぐ為に、現在の小選挙区制にはかねてから反対で中選挙区制の復活を唱えている。
- 国防族の一人で「外交・防衛がやりたくて国会議員になった」と公言するほどの防衛通。中国や北朝鮮の脅威に対抗するためミサイル防衛の必要性をテポドン・ショック以前から主張してきた。
- ジェンダーフリーや男女共同参画基本法を“白い文化大革命”や“悪法”と厳しく非難してる。
- 週刊新潮06年10月26日号に、「米田建三『昭和天皇は臆病者』」と言った見出しで、酒の席で寄った勢いで戦前であれば不敬罪に問われるような天皇ならびに皇室を侮辱し自らがそれに代わる資格あり、と簒奪を宣言したとの発言があったと國民新聞が報じたとの記事が掲載された。
[編集] 著書
- 『儲かって笑いのとまらない小さな会社の研究』(エール出版社,1984年)
- 『儲かって笑いのとまらないヒット商品の研究』(エール出版社,1985年)
- 『男が転職を決断する時』(エール出版社,1985年)
- 『日本の反論―戦勝国の犯罪を検証する』(並木書房,2006年)
- 『危ない!人権擁護法案』(展転社,2006年/共著・平沼赳夫・城内実・櫻井よしこ等)
[編集] 外部リンク
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