皇道派
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皇道派(こうどうは)とは、大日本帝国の陸軍内のグループである。財界や政界を直接行動(クーデターのような過激な運動も辞さない)で変革、天皇親政による国家改造を目指し、皇道派はこれを昭和維新と称した。この思想は主に尉官クラスの隊付き青年将校たちに広く支持されていたという。象徴的な人物は荒木貞夫。1930年代に同じく陸軍内でのグループである東条英機ら統制派と激しい路線対立を繰り広げるが、二・二六事件後その勢力は衰退した。
[編集] 誕生
荒木が真崎甚三郎と共に、皇道派をつくりあげる基盤は、宇垣一成陸相の下で、いわゆる宇垣軍縮が実施された時期に生まれたと言える。
宇垣は永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。
永田は、第一次世界大戦の観戦武官として、ヨーロッパ諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する総力戦体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。
一方、宇垣が軍の実権を握っている間、荒木・真崎らは宇垣閥外の人物として冷遇されていた。荒木は1918年のシベリア干渉戦争当時、シベリア派遣軍参謀であったが、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の規律や勇敢さに驚かされた。そのため荒木は反ソ・反共のファシスト的体質を身につけただけでなく、ソビエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者となった。
折から、佐官・尉官クラスの青年将校の間に『国家改造』運動が広がってきた。その動機は、
- ソビエトが1928年にはじまる第一次五ヶ年計画を成功させると、日本軍が「満州」を占領することも、対ソ攻撃を開始することも不可能になるので、一刻も早く対ソ攻撃の拠点として「満州」を確保しようとする焦り。
- 軍縮のため将校達の昇進が遅れ、待遇も以前と比べて悪化しそれに対する不平・不満が激化したこと。
- 農村の恐慌や不況のため、農民出身者の兵士の中に共産主義に共鳴する者が増加し、軍の規律が動揺するのではないかという危機感を将校達に与えたこと。
などである。
青年将校らは、このような状況を作り出しているのが、宇垣ら軍閥を始め、財閥・重臣・官僚閥であると考えたのである。
1931年11月、「10月事件」の圧力を背景に、犬養内閣で荒木が陸相に、ついで1932年1月に真崎が参謀次長に就任すると、この2人は派閥人事でかれらに共鳴する者を登用し、自派の勢力を強めると共に、尉官クラスに官邸で連日のように酒を振る舞うなど、クーデターを企てる青年将校らを育成した。こうして荒木らと青年将校は結びついた。
荒木や真崎は、日露戦争時期を理想化し、日本をその状態に復帰させることが、軍の拡大強化や対ソ戦を早く決行できる所以だと考えた。ここから、「君側の奸」を討ち、「国体を明徴」にし、「天皇親政」を実現すべしという思想が引き出される。このような思想を抱く荒木らに対し、青年将校らは「無私誠忠の人格」として崇敬した。これが皇道派である
[編集] 行動
この派は荒木・真崎をシンボルとし、1932年(昭和7)2月に参謀本部第二課長(作戦担当)ついで第三部長(運輸・通信担当)となった小畑敏四郎、憲兵司令官ついで第二師団長となった秦真次、幕僚の満井佐吉らが首脳部をなしていたが、彼らが「国家革新」の切り札と頼むクーデターの計画に当たったのは、村中孝次・磯部浅一ら尉官クラスの青年将校団である。
皇道派がクーデター計画に狂奔したのは、彼らが統制派ほどに具体的な情勢判断と方針を持たず、互いに天皇への忠誠を誓い、結果を顧みずに「捨石」たらんとしたという思想的特質にもよる。
青年将校らは自分たちの行動を起こした後は、「陛下の下に一切を挙げておまかせすること」 (※2・26事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉の尋問調書より)に期待するのみであった。
また、彼らの信頼を集めた荒木や真崎も、自分たちが首班となって内閣をつくることを予期するだけで、その後の計画も無く、各方面の強力な支持者もいなかった。とくに財閥や官僚には皇道派を危険視する空気が強く、彼らが政権を担当する条件そのものが欠落していたのである。
それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走るという特徴が表面に現れた。その特徴こそ、軍部・官僚・財閥のファッショ的支配を押し進める露払いの役割を果たしたのである。もともと荒木が陸相に就任したこと自体、三月事件・一〇月事件で政党首脳が恐怖を感じた結果であった。
真崎は教育総監時代、天皇機関説排斥運動の中心となり、政党政治の最後の拠り所までも粉砕する役割を果たした。五・一五事件や相沢事件の公判は、裁判所を軍国主義の扇動を行う舞台に代え、国民に排外主義、国粋主義を浸透させる有力な機会として十分に利用された。この直後に引き起こされた二・二六事件は更に準戦時体制へと途を開くのである。