磯部浅一
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磯部 浅一(いそべ あさいち、明治38年(1905年)4月1日 - 昭和12年(1937年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。陸軍主計官として階級は陸軍一等主計に至るが、陸軍士官学校事件で免官、後に二・二六事件に関与し銃殺に処される。
[編集] 経歴
山口県大津郡菱海村(現長門市)に農業・左官磯部仁三郎の三男として生まれる。高小・広島陸軍幼年学校・陸軍士官学校予科を経て大正15年7月陸軍士官学校(38期)を卒業する。同年10月陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第80連隊附を命ぜられる。昭和4年10月陸軍歩兵中尉に進級するが、昭和7年6月主計将校を志願し陸軍経理学校に入校する。昭和8年(1933年)5月経理学校を卒業、主計に転科し陸軍二等主計(中尉相当)に任官される。同年6月近衛歩兵第4連隊附を命ぜられ、昭和9年(1934年)8月陸軍一等主計(大尉相当)進級と共に、野砲兵第1連隊附に移る。同年士官学校事件に巻き込まれ11月に拘禁、翌年3月停職、4月に釈放される。その後村中孝次とともに「粛軍に関する意見書」を執筆し、8月に免官。早くから北一輝の下に出入りし、皇道派青年将校グループの先駆者的存在として知られた。昭和11年(1936年)の2・26事件では、栗原安秀らとともに計画の指揮に当たり、翌昭和12年(1937年)8月銃殺刑。獄中で「行動記」「獄中遺書」を執筆し、計画の正当性を後世に訴えた。特に「獄中遺書」には、天皇に対し責任を追及している文があり、注目に値する。彼によると、日本は本来、「天皇の独裁国家ではなく」「重臣の独裁国家でもなく」「天皇を中心とした近代的民主国」なのだが、「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」なのだという。
なお、銃殺時には「天皇陛下万歳」は唱えなかったという。
[編集] 関連書籍
- 佐々木二郎『一革新将校の半生と磯部浅一』(芙蓉書房、昭和55年)
- 山崎国紀『磯部浅一と二・二六事件』(河出書房新社、平成1年)