天皇機関説
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天皇機関説(てんのうきかんせつ)とは、大日本帝国憲法下で確立された憲法学説である。統治権(主権)は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として他の機関の参与・輔弼(ほひつ)を得ながら統治権を行使すると説いた。ドイツの学者・イェリネックに代表される国家法人説(主権論としては国家主権説)に基づく。
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[編集] 学説の内容と変遷
[編集] 国家主権説と君主主権説・人民主権説
「主権(この場合、国家の最高決定権)を有するのは誰か?」という問いに対して、「君主である」と答えるのが君主主権説、「国民ないし人民である」と答えるのが国民主権説ないし人民主権説であるが、「国家である」と答えてこの点を曖昧にするのが国家主権説である。君主主権説と国民主権説の両極端を排し、折衷した理論であるから、政体の移行期に、穏健な進歩的思想として広く受け入れられやすい。
[編集] 天皇機関説の発展
[編集] 天皇機関説前史
大日本帝国憲法の解釈は、当初、帝国大学教授・穂積八束らによる天皇主権説が支配的で、藩閥官僚による専制支配(超然内閣)を理論の面から支えた。天皇主権説とは天皇に主権があると説く説であり、君主主権説の日本への適用である。また、この天皇主権は究極のところ天皇の祖先(皇祖皇宗)に主権があることを意味し、神勅主権と呼ばれた(王権神授説の日本への適用)。
[編集] 天皇機関説の濫觴
これに対し、東京帝国大学教授・一木喜徳郎は、統治権は法人たる国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定する天皇機関説を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。もっとも、一木が導入した国家法人説は、19世紀前半のドイツにおいて人民主権説に対して君主主権説を擁護する役割を果たしたものである(外見的立憲君主制)。それゆえ、最高機関である天皇の権限を絶対視し、日清戦争後、政党勢力との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用された。
[編集] 天皇機関説の隆盛
日露戦争後、天皇機関説は、一木の弟子である東京大学教授・美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。
美濃部の天皇機関説はおおよそ次のような理論構成をとる。
- 国家は、一つの団体で法律上の人格を持つ。
- 統治権は、法人たる国家に属する権利である。
- 国家は機関によって行動し、日本の場合、その最高機関は天皇である。
- 統治権を行う最高権限たる主権は、天皇に属する。
- 最高機関の組織の異同によって政体の区別が生れる。
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- (衆議院憲法調査会・事務局作成資料「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」から引用参照)
大正時代の初めには、穂積の弟子である東京大学教授・上杉慎吉と美濃部との間で論争が起こる。共に天皇の王道的統治を説くものの、上杉は天皇と国家を混同し、「天皇は、天皇自身のために統治する。」「国務大臣の輔弼(ほひつ。君主の統治を助けること。)なしで、統治権を勝手に行使できる」とし、美濃部は「天皇は国家人民の為に統治されるのであって、天皇自身の為に統治するのではない」と説いた。
この論争の後、京都帝国大学教授・佐々木惣一もほぼ同様の説を唱え、美濃部の天皇機関説は学界の通説となった。民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、また、美濃部の著書が高等文官試験受験者の必読書ともなり、大正時代半ばから昭和時代の初期にかけては、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。同時期に摂政・天皇であった昭和天皇が、天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことは、よく知られる。また、美濃部とは対極とも見られる右翼思想家・北一輝も一時期は、天皇機関説の立場を採っていた。
[編集] 天皇機関説事件
軍部ファシズムの台頭と共に国体明徴運動が起こり、思想・学問の自由は圧迫弾圧されて行き、天皇機関説は国体に反するとして排撃を受け始めた。
1935年(昭和10年)2月19日、貴族院本会議の演説において、菊池武夫議員(男爵・陸軍中将・在郷軍人議員)が、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授・帝国学士院代表)の天皇機関説を国体に背く学説であるとして「緩慢なる謀叛であり、明らかなる叛逆になる」とし、美濃部を「学匪」「謀叛人」と面罵非難した。菊池は前年、足利尊氏を評価する記事を10年以上前に同人誌に書いた中島久万吉・商工大臣を「日本の国体を弁えない」と非難して辞任に追いやっている。また、菊池は、南北朝時代に南朝方に従った菊池氏の出身で、天皇を神聖視する陸軍の幹部でもあり、また、右翼団体・国本社とも関係があった。
この菊池の演説をきっかけに軍部・右翼の機関説排撃が激化する。同年2月25日、美濃部が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行い、議場からは拍手が起こり、菊池までもがこれならば問題なしと語るに至った。しかし、議場外では右翼団体や在郷軍人会が抗議の声を上げ、中には機関説を誤解して、「畏れ多くも天皇陛下様を機関銃(機関車という説も)に例えるとは何事か」と激怒する者もいた。
- 去ル二月十九日ノ本会議ニオキマシテ、菊池男爵ソノ他ノ方カラ、私ノ著書ニツキマシテ御発言カアリマシタニツキ、ココニ一言一身上ノ弁明ヲ試ムルノヤムヲ得サルニ至リマシタ事ハ、私ノ深ク遺憾トスルトコロテアリマス。・・・今会議ニオイテ、再ヒ私ノ著書ヲアケテ、明白ナ反逆思想テアルトイハレ、謀叛人テアルトイハレマシタ。又学匪テアルト断言セラレタノテアリマス。日本臣民ニトリ、反逆者、謀叛人ト言ハルゝノハ、此上ナキ侮辱テアリマス。学問ヲ専攻シテヰル者ニトッテ、学匪トイハルゝ事ハ堪へ難イ侮辱テアルト思ヒマス。・・・所謂機関説ト申シマスルハ、国家ソレ自身ヲ一ツノ生命アリ、ソレ自身ニ目的ヲ有スル恒久的ノ団体、即チ法律学上ノ言葉ヲ以テ申セハ、一ツノ法人ト観念イタシマシテ、天皇ハ此法人タル国家ノ元首タル地位ニ在マシ、国家ヲ代表シテ国家ノ一切ノ権利ヲ総攬シ給ヒ、天皇カ憲法ニ従ッテ行ハセラレマスル行為カ、即チ国家ノ行為タル効カヲ生スルト云フコトヲ言ヒ現ハスモノテアリマス。(美濃部の釈明演説より)
美濃部の釈明演説によっても一向に排撃の声は衰えず、演説内容が新聞で報道されると、軍部・右翼の排撃の声はかえって強まった。これに乗じた野党・政友会は、機関説論者である枢密院議長・一木喜徳郎(美濃部の師匠)や法制局長官・金森徳次郎らの失脚、さらには岡田啓介内閣打倒を目論んだ。政府は議会終了後、軍部大臣の要求により、美濃部を取調べるよう指示した。そして、出版法違反を理由にして『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊の著書を発禁処分とし、文部省は「国体明徴訓令」を発した。さらに、政府は、同年8月3日と10月15日の2回にわたり、「国体明徴声明」を発して、統治権の主体が天皇に存することを明示し、天皇機関説の教授を禁じた。
- 恭しく惟るに、我国体は天孫降臨の際降し給へる御神勅に依り明示せられたる所にして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚の栄は天地と倶に窮りなし。・・・もしそれ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使するための機関なりとなすが如きは、これ全く万世無比なる我が国体の本義を愆るものなり。・・・政府は愈々国体の明徴に力を効し、其の精華を発揚せんことを期す。(8月3日の国体明徴声明)
- ・・・然るに漫りに外国の事例学説を援いて我国体に悖り其本義を愆るの甚だしきものにして、厳に之を芟除せざるべからず、政教其他百般の事項総て万邦無比なる我国体の本義を基とし其真髄を顕揚するを要す。(10月15日の国体明徴声明)
美濃部は内務省警保局長・唐沢俊樹によって不敬罪で告発され、検事局で取調べを受けた。取調べに当たった検事は当然、美濃部の著書で天皇機関説を学び、美濃部が試験官を務めた高等試験司法科試験に合格して検事になっていた。この取調べの結果、美濃部は起訴猶予処分となったが、同年9月18日に貴族院議員を辞職した。翌年、美濃部は天皇機関説に憤激した右翼暴漢に撃たれ重傷を負った。
1937年、文部省は『国體の本義』を発行して全国の教育機関に配布した。その内容は、先の国体明徴声明を踏まえて、天皇機関説は西洋思想の無批判導入であり、機関説問題は西洋思想の影響を受けた一部知識人の弊風に原因があると断じた。
- 天皇は統治権の主体であらせられるのであつて、かの統治権の主体は国家であり、天皇はその機関に過ぎないといふ説の如きは、西洋国家学説の無批判的の踏襲といふ以外には何等の根拠はない。天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神として肇国以来の大義に随つて、この国をしろしめし給ふのであつて、第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。外国に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かゝる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によつて確保せんとするものに過ぎない。・・・明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加へず、そのまゝこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般のものとは相当な思想的懸隔を来してゐる。かくて、かゝる情態から種々の困難な問題が発生した。嘗て流行した共産主義運動、或は最近に於ける天皇機関説の問題の如きが、往々にして一部の学者・知識階級の問題であつた如きは、よくこの間の消息を物語つてゐる。(『国體の本義』より)
2006年、アメリカ議会図書館から、天皇機関説を唱えた憲法学者ら19人に対し、文部省思想局が報復警告を行い転向や修正を強要した旨を記した文書が見つかった。アメリカが終戦直後に日本で接収した『各大学における憲法学説調査に関する文書』で、およそ450ページ。個人名や具体例とともに政府による思想統制の過程が記されている。
[編集] 戦後の天皇機関説
第二次世界大戦後、憲法改正の気運が高まる中、美濃部は憲法改正に断固反対した。政府、自由党、社会党の憲法草案は、すべて天皇機関説に基づいて構成されたものであった。しかし、天皇を最高機関とせず国民主権原理に基づく日本国憲法が成立するに至り、天皇機関説は解釈学説としての使命を終えた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 衆議院憲法調査会・事務局作成資料「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」 - PDFファイル・524KB
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