田村氏
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田村氏(たむらし)は陸奥国の田村郡を支配していた戦国大名。豊臣秀吉により改易・断絶となるが、後に仙台藩伊達家の内分分家大名として再興される。明治以降は子爵となり華族に列せられた。
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[編集] 概要
平安時代、桓武天皇より征夷大将軍に任命されて蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂を祖とし、以下連綿と田村郡を領してきたとされる。 だが、応永期までの田村庄領主であった田村庄司家は藤原姓であり、それ以後に田村庄司職を奪取したとみられる田村氏(三春田村氏)は、田村義顕が大元帥明王社に奉納した大般若経に平義顕とあり、同様に田村清顕発行文書には平清顕とあることから平姓であることが明らかである。
その一方で両者とも坂上氏の後裔を称しており(田村庄司家は鎌倉大草紙、三春田村氏の場合は家譜類などに見える)、田村郡の領主は坂上氏の末裔でなくてはならないという伝統があったのであろうと思われる。それはこの地における支配の正当性を示すものであり、徳川氏が三河国の領主としての正当性を示そうと河内源氏を称したのと同種ではなかろうか。(三春町史などでは田村地方が坂上田村麻呂の功田の可能性があり、その子孫が鎌倉初期まで領したのではないかいう推察がなされている。また田村庄司家と三春田村氏が同じ平姓の一族であり、応永年間前後に総領職が移動しただけであるという説も一部にある。)
家紋は坂上氏の代表紋である車前草と桐、巻龍、蝶、巴などを使用しており、再興された近世大名田村家は伊達氏との縁から縦三つ引両も用いる。実名に「顕」の一字を通字として用いる。
[編集] 戦国大名田村氏
国人領主の一人であった田村氏は初め守山(一説には八丁目)城に拠っていたが、戦国時代に田村郡(田村庄及び小野保)内の在地領主を従えさせて、田村郡内における最有力者となり、戦国大名化した。これを端的に表すのが1504年の田村義顕による三春城への移城であろう。領内には俗に田村四十八館とよばれる支城・出城を構え、要衝に一族・一門を配した。田村氏は篭城には向かない三春城の立地上、支城・出城のネットワークを用い、積極的な対外攻勢を常とした。家中には義顕の弟で月斎と号した田村顕頼のような軍師がおり、周辺諸氏からは「攻めの月斎」と恐れられたという。
その支配領域は近世に田村郡を支配した三春藩が五万五千石であったので、同程度であったろうと考えられがちであるが、近世三春藩領には小野地方がほとんど入っていないため、田村氏の支配領域の石高はもっと多く、「田母神氏旧記」などにみられるように八万七千石程度であったろうと考えられる。当然時期によって盛衰があり、最盛期は安積郡や安達郡、岩瀬郡の一部が含まれ、十万石以上あったとも思われる。
もっとも、秀吉による太閤検地までは貫高制であったこと、および田村氏は田村庄の庄司職を掌握することによって領内を支配し、田村庄は戦国時代末期まで続いた全国的に見ても特異な荘園であることを付記しておく。
このように戦国大名化した田村氏であったが、外部には蘆名氏、相馬氏、佐竹氏、岩城氏などの周辺諸大名からの侵攻があり、内部には大名権力による家中掌握が弱かったため独立性の強い在地領主層の抵抗・離反などに悩まされた。義顕の子で三春城主田村隆顕は、伊達稙宗の娘を妻に迎え伊達氏の支援を受けるようになり、この窮地を脱している。隆顕の後を継いだ田村清顕も四面楚歌に陥ったが、伊達政宗に自身の一人娘である愛姫を嫁がせることで伊達氏と手を結び、田村氏の独立を維持し版図を大きく広げた。また隆顕、清顕の時代に積極的な対外攻勢に出ることができたのも伊達氏の後ろ盾があったゆえともいえよう。(義顕の時代までは安積郡方面への侵攻を主としたが、仙道を南進する伊達氏と衝突したのちは岩瀬郡や石川郡、あるいは安達郡などへの攻勢に転じている。隆顕と伊達稙宗の娘の縁組も安積郡での伊達氏優位の和睦を受けてのことと思われる。)
清顕には男子がいなかったため、1586年に清顕が急死すると、清顕後室を立て、家中が一致結束し自存していく方針を血判し確認した。だが、頼みの綱である伊達政宗と愛姫の不仲が伝えられていたこともあり、清顕後室が相馬氏の娘であった関係から相馬氏を頼ろうとする相馬派が田村梅雪斎顕盛(隆顕の弟で小野新町城主)を筆頭として台頭し、清顕の遺志を尊重し伊達氏を頼って愛姫に子が誕生するまで自存するとした伊達派と対立した。このような中、1588年に田村領を狙った相馬義胤が田村家中の相馬派と結んで三春城入城を企てた。しかし、家中伊達派の筆頭橋本顕徳らにより相馬軍は三春城揚土門まで登りつつも退却させられ、その後これに端を発する郡山合戦が起こった。これは相馬・佐竹・芦名・二階堂連合軍と伊達・田村軍が郡山にて対決したもので、実質的に相馬家と伊達家の田村領をめぐる戦いである。勝利した伊達政宗は三春城に入城、清顕後室を隠居させ家中相馬派を一掃した。そして、清顕の甥である田村孫七郎を三春城主に据え、宗の一字を与え田村宗顕と名乗らせた。宗顕の父は清顕の弟氏顕で清顕と同母であるので宗顕もまた伊達氏の血を引くことになる。これら伊達政宗による一連の相馬家の影響力排除を「田村仕置」とよぶ。
なお、これによって田村氏が独立を失い、伊達氏家中に含まれたかのような説明がされることがあるが、そうではない。確かにこれ以後伊達氏の影響力が強まり、また宗顕も田村家中も政宗へ依存することになるが、宗顕は政宗と愛姫の子供が生まれるまでの「名代」とされ、中継相続人として期間限定的に田村家の家督を継いだ考えられる。このことから、完全に伊達勢力下となり、伊達家の実質的な配下ではあったが、あくまでも独立領主としての地位を保持したと思われるのである。
[編集] 天下一統後の田村氏
しかし宗顕は1590年、豊臣秀吉の小田原の役に参陣せず、奥州仕置によって改易され、田村領は政宗に与えられることになった。これは、田村家の家督は清顕より渡され自分にあるとした伊達政宗が宗顕の参陣を止めさせたためであり、結果的に政宗は奥州仕置を利用して田村領を乗っ取った形となる。この政宗の裏切りとも思える行為に宗顕以下田村家中は失望、憤慨した。宗顕は改易後、政宗の庇護の申し出を断り、牛縊定顕と名乗り隠遁した。政宗は田村家中も米沢へ招致しようと努めたが、田村家中の多くはこれを断り蒲生氏や上杉氏、相馬氏などに仕官するか、旧知行地に帰農した。帰農したものは近世に至って庄屋・豪農といった村落特権層を形成し、郷士や在郷給人といった待遇を受けるものもいた。実際、近世三春藩の庄屋層は田村氏の流れを汲むものや家中館主の後裔であると思われるものが圧倒的多数を占める。また、合戦の敗北などによる断絶ではなかったため、帰農した田村家の一族・家中館主とその子孫は敗北感を持たず、剛腹で武勇に富み、家門を称して村民からは「御屋形(様)」などと呼ばれ、戦国の気風が強かったようである。山に囲まれた田村郡の地勢も関係してくるのであろう。新たな領主は懐柔に苦労したようである。
なお、宗顕は後に愛姫の意向により仙台藩領白石に身を寄せ白石城主片倉景綱の姉・片倉喜多の名跡を継ぐことになった。また、他家に仕官した旧田村家中も蒲生家の改易や上杉家の減封による召し放しによって浪々し、最終的に伊達家に仕官することも多かったのである。
その後、愛姫の遺言により伊達忠宗の三男宗良が1652年岩沼三万石を分知され、田村宗良を名乗って田村氏が再興される。後に一関に移り一関藩となった。この近世大名田村氏は伊達六十二万石の内からの内分分家大名であったが、幕府に対して直接公役を果たし、譜代大名格となる。なかでも一関初代藩主(近世大名田村氏としては二代)田村建顕は、奏者番として江戸城に出仕し、浅野長矩の刃傷事件に際してその身を預かり、邸内で切腹させたことでも有名である。
[編集] 系譜
凡例 太線は実子。
坂上犬養 ┃ 坂上苅田麻呂 ┃ 坂上田村麻呂
坂上田村麻呂 ┣━━━┓ 広野 浄野 ┃ 内野 ┃ 顕麿 ┃ 田村古哲
田村古哲 ┃ 顕谷 ┃ 平顕 ┃ 友顕 ┃ 忠顕 ┃ 吉顕 ┃ 家顕 ┃ 実顕 ┃ 長顕 ┃ 朝顕 ┃ 行資 ┃ 兼顕 ┃ 政顕 ┃ 則顕 ┃ 光顕 ┃ 綱顕 ┃ 輝顕 ┃ 家吉 ┃ 満顕 ┃ 持顕 ┃ 直顕 ┃ 盛顕 ┣━━━┓ 義顕 頼顕(月斎) ┣━━━┓ 隆顕 顕盛(顕基、顕定、梅雪斎) ┣━━━┓ 清顕 氏顕(友顕) ┃ 宗顕 ┃ 定広
[編集] 一族・主要家臣
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[編集] 武蔵七党の田村氏
武蔵七党に属す”西党”に田村氏有り。多摩川中域を統治していた日奉氏を祖とする地方豪族である。一族には小川氏(小河)、立川氏(立河)、中野氏、柚木氏、稲毛氏、平山氏、田口氏、西氏、由井氏、高橋氏などがおり、活躍した武将も存在する。
[編集] 参考文献
- 垣内和孝『室町期 南奥の政治秩序と抗争』(岩田書院中世史研究叢書、2006年) ISBN 4872944429