坂上浄野
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坂上浄野(さかのうえ・の・きよの、延暦11年(791年)-嘉祥3年(850年))は、坂上田村麻呂の三男。田村麻呂の後継者。正四位下陸奥按察使、出羽按察使などを歴任した。
嵯峨天皇の側近として、嵯峨天皇の東宮時代から信任を得て、特に騎射の才を認められて寵愛された。田村麻呂の死後の弘仁10年(819年)に陸奥鎮守府将軍を拝命し、翌年の弘仁11年(820年)には陸奥介も兼務した。弘仁13年(822年)には左近衛少将に任官し、翌年には従五位上に進んだ。その後、兄の坂上広野が右近衛少将、陸奥介などとなったことから、兄に東北運営を任せて、薩摩守に転任し、土佐守などを歴任し、父以来の東北運営から退いた。しかし、天長5年(828年)に兄の坂上広野が酒の飲みすぎから早死にすると、再び浄野が東北運営に起用された。天長10年(834年)陸奥および出羽の按察使に任命され、再び、東北運営をおこなった。
田村麻呂の家系は田村麻呂の長男の坂上大野が若くして亡くなり、家督を継いだ次男の坂上広野も若くして亡くなったために、三男の浄野が田村麻呂の後継者となった。また、「大野」と「広野」は同一人物説もあり、浄野が次男とする説もある。
浄野には、長男の坂上当宗(鎮守府将軍)、次男の坂上当峰(出羽守)、三男の坂上当道(陸奥守)の三人の男子があったことがわかっている。子らもそれぞれ東北運営に関与していたことが官職からもわかる。また、坂上当宗の子の坂上良宗も鎮守府将軍になった。坂上当道の子の坂上好蔭は武人として従四位上左馬頭、右近少将にまでなるが、その後、当道の家系は都に住して、坂上是則(当道の孫)、坂上望城(当道の曾孫)は歌人として名を成し、その子孫は検非違使大尉や明法博士など法律に関する分野で活躍した。