坂上広野
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坂上広野(さかのうえ・の・ひろの。( - 天長5年(828年))は坂上田村麻呂の次男。従四位下。右兵衛督。坂上広野麻呂とも。
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[編集] 事績
[編集] 平野殿
摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の開発領主で「平野殿」と呼ばれた。
薬子の変では父と共に嵯峨天皇につき、広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は美濃道を通って平城上皇を邀撃する任を与えられた。兄の坂上大野が早世したため広野が坂上氏の家督を嗣ぐ。広野は父の田村麻呂ゆずりの武人だったらしいが、酒の飲み過ぎが原因でやはり早死にし、弟の坂上浄野が家督を嗣ぐ。
姉の坂上春子は、桓武天皇の後宮で、桓武天皇の崩御後は、広野を頼って平野の地に住み、長宝寺を創建し、坂上氏累代の尼寺となったと伝える(長宝寺系図)。 融通念仏宗の総本山の平野の大念仏寺は、開祖良忍(聖応大師)が四天王寺で見た霊夢で、坂上広野の私邸内に建てた修楽寺が前身という(大念仏寺記)。
広野の墓は、平野の坂上公園の中にあるが、往時のものではなく後世のものである。
[編集] 広野の一族
広野の子の侍従の坂上峯雄の子の坂上峯盆は出羽権介、その子の坂上行松は秋田城介権守、その子の坂上高時は出羽介と、広野の父の田村麻呂に所縁の奥州に関連した官位となる。広野の弟の坂上浄野の子孫も坂上当宗と良宗が鎮守府将軍、坂上当峯が出羽守、坂上当道が陸奥守などを歴任。浄野の三男とされる坂上当道は、『文徳実録』によれば広野の子であるという。当道は摂津国平野庄におり、広野にはじまる平野の坂上氏宗家の家督を継いだともいわれている。広野の子孫は、代々、明法博士などの官職を得て京都に住した系統(当道の子の右近少将の坂上好蔭の系統)と、平野庄に土着したとされる系統(広野の孫の出羽権介の坂上峯盆の系統)に分かれた。
[編集] 伝承
[編集] 平野氏と七名家
杭全氏が没落した後、室町時代後期に平野氏が台頭する。坂上春子創建の長宝寺の寺譜や平野氏の一族の末吉氏に伝わる家伝や末吉氏系図によると、坂上広野の孫で清水寺別当の坂上峯盆の子の秋田城介権守の坂上行松(平野行増)を祖とするという。平野氏からは末吉氏をはじめとする坂上=平野七名家と称する一族が生まれ、宗家の坂上氏(平野氏)を筆頭に、平野七名家が坂上宗家を支えると共に代々「民部」を称し、堺などと並ぶ中世の自治都市の平野を担った。宗家の坂上氏は、代々、京都の公家との姻戚関係を維持し、明治時代に東京に移るまでは長宝寺の一角に構えた屋敷に住した。七名家の筆頭の末吉氏は江戸時代初期には繁栄を極め、後に東西両家(末吉勘兵衛家、末吉孫左衛門家)に分れたが、子孫は今も平野の地に現存している。