琉球民族
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琉球民族(りゅうきゅうみんぞく)とは、旧琉球王国の領域である沖縄諸島、先島諸島、奄美諸島の言語、生活習慣、歴史を本土の大和民族のものとはっきり異なると捉えた場合に使われる表現である。旧琉球王国の住民を日本人(大和民族)とするのか、琉球人(琉球民族)とするのかは議論が分かれるところである。
目次 |
言語
- 詳しくは琉球語参照
琉球の言葉は言語学的には日本語族に属することがはっきりしている。学術的に琉球語、あるいは琉球方言と呼ばれる。先ず南北にわけ、北の北琉球方言が、奄美諸島北部の奄美方言、奄美諸島南部から沖縄本島北部の国頭方言、沖縄本島南部と周辺島嶼部の沖縄方言(首里方言)、南の南琉球方言が、宮古群島の宮古方言、八重山列島のうち与那国島以外の八重山方言、与那国島の与那国方言に分けられる。島によって言葉が異なり、特に宮古島は他の島とは大きく異なり独特である。また、鹿児島県である奄美諸島の方言は、緩やかに疎遠になりつつある。
- 琉球で使われる言葉を、言語学的に琉球方言とするのか、日本語族琉球語派とするかはっきりしない。例えば、ヨーロッパ言語と比較すると、同じゲルマン語族に属するドイツ語と、オランダ語は別の言語であると定義されている。しかし、日本で普通教育が確立する以前の日本の各方言を比較すると、ドイツ語とオランダ語の違いよりも大きく異なるものがいくつか存在する。現代でも、他地方の人間には理解不能な方言が存在する。よって、琉球の言葉を琉球語とすると、日本語の他の方言も同じように東北語、関東語、津軽語となり、方言と言語の相対的定義の不一致が起こることから、琉球弁あるいは琉球方言が正しい定義であると主張する学者もいる。もちろん、琉球の言葉を琉球語と定義するのは政治的意味も含むが、こうすると「日本語と琉球語」という対比自体が成り立たなくなる。一方で、琉球の言葉を琉球方言とするのは構わないが、この場合は俗に言う共通語も言語学の定義からすると、日本語族の一方言で琉球方言と同格であること。つまり単一の日本語など存在しないこと、日本語=共通語とすれば他の方言はそれぞれ津軽語、佐賀語、大阪語となることを留意するべきである。
現在の沖縄県では、沖縄化した日本語(沖縄で言うウチナーヤマトグチ、日本語的には俗に「沖縄弁」ともいう)が一般に話され、琉球語(琉球方言)が衰退し危機的とされる。また奄美諸島では、標準語の影響は当然として、鹿児島県所属としての影響や、また関西弁の影響もみられ、ウチナーヤマトグチとは違うものに変化している。
- これは、地域ごとの方言差が激しく、県民同士でも相互に会話が通じにくいという上記の理由と、テレビの影響といった現代一般的な理由と、明治時代に学校で始まった標準語普及運動(方言札)の名残、そして義務教育による標準語使用が大きい。文化財的価値のある琉球語(琉球方言)を、守ろうとする動きが一部では起こっているが、他県でもそれぞれの方言に対し、同じ理由によって同様の動きがある。
人種の系統
琉球民族論を主張する者は大和民族との違いを強調し、琉球日本人論を主張する者は逆を強調するなど、学術的判断とかけ離れたところで議論が展開されることが多い。所定の地域内に住む住民を同一民族とみなすことは、基本的にはイスラエル国内に住むユダヤ人のように集団内に遺伝的な差異があっても差し支えはなく、文化的な同一性で決定づけられるものである。また、生物学的な人類の区別は人種と呼ばれ、文化的な違いを定義する民族とは意味合いが異なるものであるが、以下は本土の住民と南西諸島(奄美諸島以南)の住民との比較のため参考として記するものである。
琉球も本土の人間も、縄文人を祖先とすることが最近の遺伝子の研究で明らかになっている。また、中国南部及び東南アジアの集団とは、地理的には近く昔から活発な交易が行われていたため、本土の住民と違いその影響があったと考えられていたが、遺伝子の研究からそれらの集団とは比較的離れていることが判明している。本土の住民との近縁性や、同じく縄文人の子孫とされる北海道のアイヌ民族との近縁性が指摘されている。本土の住民は、弥生時代の人骨や近年の遺伝子の研究から、朝鮮半島や中国北部といった東アジアの集団とも近縁であることが判明している。考古学などの研究から、南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期に南下して定住したものが主体であると推測される。奄美地方では「平家の落人」伝説など古くから本土側の住民との遺伝的な交流があったものと思われ、遺伝的・人類学的にみても両者の間に明瞭な境界線を引くことは難しい。
- 政治的な人種論に対する批判として指摘されることは、日本列島の住民は複数の人種の混血であり、その混血度は地域によって異なることである。しかし、全般的に見て日本列島の住民は語族が一緒であるだけでなく遺伝的にも近縁なもの同士であるといえ、さらに朝鮮半島や中国大陸の住民とも近縁同士ということになる。琉球民族と大和民族が遺伝的に違うと主張すれば、琉球人と似た風貌や特徴を持つ九州南部の住民をどう定義するのかという問題が起こり、境界の線引きを曖昧にして琉球人は人種的に大和民族であると主張すれば、遺伝的に同じように近い朝鮮半島や中国大陸の住民と本土の住民を区分するかどうかも問題になろう。
文化・慣習
地理的に東南アジア、中国南方、九州の交易における中間点に属しその生活慣習や伝統は独特である。独立した王国であったため、一般的な地方文化とは異なり、庶民の文化から宮廷の伝統まで揃っている。沖縄諸島と八重山諸島・宮古諸島・与那国島、そして奄美諸島では島が離れているため、伝統が多少異なる。
詳細は各項目を参照されたい。
歴史
琉球王国統一以前は、各島嶼が独立した勢力であったが、琉球民族論を主張するものは、歴史的に琉球は別の王国であったため、大和の朝廷とは別の民族であったと主張し、統一後の最大版図を民族領域としている。逆に、琉球は歴史的にも日本民族であると唱える側は、大和地方にあった日本の朝廷が拡大していく過程で、沖縄は最後であったに過ぎず他の日本の地方と同格であるとされる。
12世紀に農耕社会が始まり、グスク文化、三山時代をへて15世紀には琉球王国が成立する。琉球王国は明への朝貢、東南アジア・東アジア・スペインとの交易で栄えた。1609年に、薩摩藩に侵攻され属国となった。琉球王国は、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後も、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、王国廃止まで薩摩藩と清の両属という体制となりながらも、独自の国と文化を維持した。また、琉球が支配していた奄美諸島は、割譲され薩摩藩直轄地となった。
1872年に、琉球王国は琉球藩(琉球処分)になり、1879年琉球藩が廃止され鹿児島県へ編入、同年中に沖縄県が分離成立した。その後、様々な施策が行われたが、相変らず経済基盤が脆弱であったため、日本本土・ハワイ・中南米へ移住・移民する者が多く、戦後も続いた。
第二次世界大戦終了後、沖縄県は奄美諸島とともにアメリカ軍による支配のもと日本から切り離され、紆余曲折を経て、1952年に琉球政府が発足した。国際法上琉球人(Ryukyuan)として、日本人ともアメリカ人からも区別され、パスポートも琉球政府発行のものが交付された。奄美出身者は、始め琉球人とされたが、1953年に奄美諸島は日本に復帰し、沖縄に出稼ぎにきていた奄美出身者は「日本人」に戻った。沖縄で仕事を続けるためには居住許可が必要となり、公職追放(当時の琉球銀行総裁、等)などで政治的権利は剥奪され、土地所有権が認められないなど、沖縄に住む奄美出身者は様々な制限を受けることになり、これは沖縄の日本復帰まで続いた。
1972年5月15日、沖縄が本土復帰し沖縄県が復活する。沖縄出身者は日本国民としての地位が復活し、日本人に戻った。
本項にあるような琉球民族と定義される民族が、沖縄県住民と同義ではないことに注意が必要である。沖縄には、比較的少数であるが、本土からの大和民族の移住(定住)者(ウチナーヤマト)や、中国からの移民、15世紀の大交易時代の名残からフィリピン系、スペイン系の琉球民族との混血等、琉球民族以外のルーツを持つ住民も存在する。
琉球の呼称
「琉球」の呼称は、もともとの自称ではなく、中国語音訳であり、隋時代に成立したとされる。現在琉球は、日本の一地方としての沖縄県となった。沖縄は、日本共通語では「おきなわ」と読み、琉球方言では「ウチなア」と呼ぶ。また、琉球諸島の人々同士では、沖縄本島の住民のことを「ウチなアン(ひ)チュ」と呼ぶが、これは「沖縄の人(おきなわのひと)」に相当する琉球語(琉球方言)である。
現状
沖縄は、大和民族とは明らかに異なった民族であるとして、沖縄独立論(琉球独立運動)が主張されている。逆に、日本人として本土と一体化すべきとの考えも流れとして存在する。一例として、県知事を務めたこともある保守系政治家の西銘順治は、新聞の取材で「沖縄の心とは?」と聞かれたとき、「それはヤマトンチュになりたくて、なりきれない心だろう」と答えている。この流れは沖縄が日本に復帰した1972年前後に顕著であった。しかし、基地問題の解決が一向に進まないことから、本土一体化志向の傾向に疑問を投げかける向きもある。また、沖縄が日本国の一部であることには異論を唱えないが、一くくりの日本文化の存在は、明治維新後の国家主義に基づくものであるとして否定する意見も存在する。
2005年に、琉球大学法文学部助教授の林泉忠(香港籍中国人)が、沖縄県民意識調査を実施(電話帳から、無作為抽出して電話をかける方法で、18歳以上の沖縄県民を対象に実施、1029人から有効回答を得た)。結果、沖縄県民の内、自らが日本人ではなく沖縄人(琉球人)であると答えた人は40.6%、沖縄が独立すべきだと答えた人は24.9%であったとされる。
本土への移住
沖縄県や鹿児島県奄美諸島では多数を占めるが、本土にも一定数が暮らしている。明治時代以降、本土就職を目指した人々は、差別や貧困のため数箇所にまとまって暮らしていた。その場所が川崎市川崎区、横浜市鶴見区、大阪市大正区などで、初期はバラックなどに住み、立地条件が悪いため水害などにも悩ませられていた。これらの地域は、オキナワタウンとも呼ばれる。現在は土地改良などが進み条件は良くなっているが、新たに流入する沖縄出身者も少なくなり、地元及び他県出身者の居住が増えている。
過去の差別
1903年に起きた「学術人類館事件」。第5回内国勧業博覧会の便乗商売として、民間業者が会場外に作った「学術人類館」において、沖縄出身者やアイヌ民族、台湾の高砂族、アフリカ人などの民族をそれぞれの民族住居に住まわせ、見せ物小屋として観覧させたのに対し、沖縄出身の言論人太田朝敷が「学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為」であると抗議し、沖縄出身者の展覧を止めさせた。この業者に対しての批判が、沖縄県でもあがった。当時の世情として太田朝敷や沖縄県民は、大日本帝国の一員であり本土出身者と同じ日本民族だとの意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱うことへの抗議でもあった。
1974年、宮古島から大阪に就職した青年が、当時の沖縄青年がひとしく抱えていた被差別意識や、そこから来る孤独感から勤務先社長の自宅に放火し、夫人を死亡させ、のちに刑務所で自殺するという事件があった。この出来事は、在阪沖縄出身者に大きなショックを与え、このままではいけない、このような事件を二度と起こさぬよう手を結びあって、自らの文化に誇りをもつ活動を行おうという考えのもとに、1975年関西沖縄青少年のつどい「がじゅまるの会」が結成された
一部の沖縄出身者が職を求め、横浜や関西地方を中心に本土へ渡り住み着くようになり、就職する為に求人広告を探しても、「朝鮮人・琉球人お断り」などと書かれるような差別を受けた。そのため、差別を避けようと、本土風に変えた名字を名乗ったり、本籍地を本土に移す事が行われた。(神戸新聞2002年5月17日)。しかし現在では、沖縄出身者が露骨に差別されることは少なくなってきている。
関連項目
外部リンク
- 沖縄県庁文化環境部国際交流課 - 移民の歴史など詳しい