狩野亨吉
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狩野 亨吉(かのう こうきち、男性、1865年9月17日(慶応元年7月28日) - 1942年(昭和17年)12月22日)は旧制一高の校長を務めた近代日本の教育者である。江戸時代の特異な思想家、安藤昌益を発見、また夏目漱石の友人としても知られる。
久保田藩(大館支藩)(現秋田県大館市)の藩士で代々学者の狩野家に生まれた。父、狩野良友。明治7年(1874年)父が上京(内務省へ)、明治9年母と共に上京。明治11年(1878年)、東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)変則科に入学。同級に上田萬年がいた。明治17年(1884年)、大学予備門を卒業し東京大学(後の帝国大学)理学部に入学。1888年、帝国大学理科大学数学科を卒業し、翌年に帝国大学文科大学哲学科2年へ編入。1891年同哲学科卒業。在学中、英文科在学中の夏目漱石と親しくなる。大学院入学。教育者の道を歩み、明治25年(1892年)、金沢の第四高等学校教授となる。明治27年(1894年)退職。明治29年(1896年)、夏目漱石の招きで熊本の第五高等学校に赴任。
1898年、34歳の若さで第一高等学校の校長となる。夏目漱石が英国留学後、一高教師になったのは狩野の推薦による。名校長の誉れが高く、一高の校風はこの時期に確立したといわれている。
1906年、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)。内藤湖南、幸田露伴ら正規の学歴がない民間学者を京大に招き、波紋を呼んだ。夏目漱石を招くことも強く望んでいたが、漱石の拒絶で実現しなかった。
明治40年(1907年)文学博士。明治41年(1908年)、神経衰弱のために辞職。大正12年(1923年)東京市小石川区大塚坂下町の長屋に「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げ、以後は書画や刀剣の鑑定などで生計を立てた。浮世絵や春画の蒐集家としても有名で、改造社社長の山本実彦からは「春画蒐集にかけては日本一」と折り紙をつけられた。また、浮世絵研究家の金子孚水は「浮世絵の秘画の収集は世界最大のもの」と評している。自ら絵筆を執って描いたあぶな絵も数百枚に及ぶ。これらの自筆の絵に合わせる形で、ノート30冊のポルノ小説を遺したことも知られている。
明治45年(1912年)から大正2年(1913年)にかけて、10万点以上の貴重な蔵書を東北帝国大学に売却。この蔵書は狩野文庫として所蔵されている。
狩野の学識を惜しむ沢柳政太郎から東北帝国大学総長に推されたこともあるが拒絶。山縣有朋や浜尾新の意向で、東宮(のちの昭和天皇)の教育掛に推されたこともあるが、やはり固辞した。
昭和5年(1930年)「科学的方法に拠る書画の鑑定と登録」講演。
生涯独身であった。生涯童貞とする説もあるが、異説もある。
明治41年(1908年)、江戸時代の思想家、安藤昌益の著書『自然真営道』を見出し、紹介したことでも高く評価されている。
また、東京大学駒場図書館に、狩野の残した膨大な文書が所蔵されている。既に整理済みで「狩野亨吉博士遺蔵文書仮目録」が作成されている。
[編集] 竹内文書の文献批判
天津教古文書のいわゆる竹内文書について文献批判を行い、昭和11年(1936年)6月、岩波書店『思想』誌上で「天津教古文書の批判」を発表し偽書であることを証明した。
- 科学図書館天津教古文書の批判のPDFファイル
なお、昭和17年天津教の裁判に検察の証人として言語学者の橋本進吉とともに出廷。
[編集] 外部リンク
- 狩野 亨吉:作家別作品リスト(青空文庫)
- 東北大学 狩野文庫[1]
- 天津教古文書の批判
カテゴリ: 日本の教育者 | 高等教育の歴史 (日本) | 1865年生 | 1942年没