第五高等学校 (旧制)
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第五高等学校 (五高) |
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創立 | 1887年 |
所在地 | 熊本市 |
初代校長 | 野村彦四郎 |
廃止 | 1950年 |
後身校 | 熊本大学 |
同窓会 |
旧制第五高等学校(きゅうせいだいごこうとうがっこう)は、1887年(明治20年)5月熊本市に設立された官立旧制高等学校。略称は「五高」(ごこう)。
目次 |
[編集] 概要
- 全国で5校のナンバースクールの高等中学校の一つとして設立された。1887年4月の仙台の旧制二高、金沢の四高に次ぐものである。初期の教員は校長を始め一高からの転出者が多く、一高をモデルとした全寮制と寮自治が志向された。
- 文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された。入学者は九州出身者が多く、卒業後の進学先は地元の九州帝大よりも東京帝大が多かった。
- 新制熊本大学の前身校の一つであり、法文学部および理学部の構成母体となった。
[編集] 沿革
- 1887年5月:第五高等中学校設立。本科・予科を設置。
- 1887年8月:長崎に医学部を設置。
- 1894年6月:高等学校令により第五高等学校に改称。大学予科・医学部を設置。
- 1897年4月:工学部を設置。
- 1901年4月:医学部を分離し長崎医学専門学校として独立。
- 長崎医学専門学校はその後1923年長崎医科大学に昇格。
- 1906年3月:工学部を分離し熊本高等工業学校として独立。
- 1949年5月:新制熊本大学に包括。
- 1950年3月:廃校。
[編集] 歴代校長
- 初代:野村彦四郎(1887年6月 - 1889年9月)
- 一高初代校長から転じる。
- 事務取扱:西村貞(1889年9月 - 1890年2月)
- 第2代:平山太郎(1890年2月 - 1891年6月)
- 在任中死去。
- 第3代:嘉納治五郎(1891年8月 - 1893年1月)
- 第4代:中川 元(1893年1月 - 1900年4月)
- 第5代:桜井房記(1900年4月 - 1907年1月)
- 第6代:松浦寅三郎(1907年1月 - 1913年10月)
- 第7代:吉岡郷甫(1913年10月 - 1921年11月)
- 第8代:溝淵進馬(1921年11月 - 1931年1月)
- 第9代:武藤虎太(1931年1月 - 1932年3月)
- 第10代:十時 弥(1932年3月 - 1940年1月)
- 第11代:添野 信(1940年1月 - 1944年9月)
- 第12代:本島一郎(1944年9月 - 1948年5月)
- 第13代:竹内良三郎(1948年5月 - 1949年5月)
- 第14代:河瀬喜一(1949年5月 - 1950年3月)
[編集] 校地の変遷と継承
開校当初の校地は熊本市東北の龍田山(立田山)麓に置かれ(龍南校地)、寮歌では「武夫原」(ぶふげん)と歌われた。新制熊本大学への包括後、五高校地は同大学の黒髪キャンパス北地区に継承され現在に至っている。赤煉瓦造の旧本館および旧化学実験場、正門(赤門)は1969年国の重要文化財に指定され、1993年には旧本館が「五高記念館」として公開されている。
[編集] 著名な出身者・教員
[編集] 卒業生
- 池田勇人 - 内閣総理大臣
- 佐藤栄作 - 内閣総理大臣
- 重光葵 - 外務大臣
- 谷正之 - 外務大臣、外務次官
- 奥村喜和男 - 逓信省官僚、企画院出向
- 毛利英於兎 - 大蔵省官僚、企画院出向
- 村瀬直養 - 商工次官
- 北島謙次郎 - 拓務次官、大蔵官僚
- 吉武恵市 - 初代労働事務次官、内務出身
- 一万田尚登 - 大蔵大臣、日本銀行総裁 / 通称・「一万田法王」
- 平田敬一郎 - 大蔵事務次官、日本開発銀行総裁
- 森永貞一郎 - 大蔵事務次官、日本銀行総裁
- 大慈弥嘉久 - 通商産業事務次官
- 中野正一 - 経済企画事務次官、商工・通産官僚
- 広岡知男 - 朝日新聞社社長 / 東大野球部出身、野球殿堂
- 大内兵衛 - マルクス経済学者。法政大学総長
- 竹下一記 - 郵政事務次官
- 緒方信一 - 文部事務次官、内務省出身
- 三善信二 - 農林事務次官
[編集] 教員
※なお熊本大学の人物一覧#旧制第五高等学校を参照。
[編集] 関連項目
- 旧制高等学校・高等中学校・ナンバースクール
- 長崎医科大学 (旧制) - 五高医学部の後身。長崎大学医学部の前身校。
- 熊本高等工業学校 - 五高工学部の後身。熊本大学工学部の前身校。
- 熊本医科大学・熊本薬学専門学校・熊本師範学校・熊本青年師範学校 - 新制熊本大学の前身諸校。