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渤海 (国)

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渤海ぼっかい、(:バルヘ、발해)(:ボーハイ(bóhăi)、渤海))698年 - 926年)は満州から朝鮮半島北部ロシア沿海地方にかけて、かつて存在した国。元来は700年建国説が有力であったが,鳥山喜一の研究により698年建国説が定説化している。高句麗滅亡後にその遺民である大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、中国からは「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹)によって滅ぼされた。

渤海国最大領域
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渤海国最大領域

旧唐書』と『新唐書』では渤海のルーツに関する記述が大きく異なり、旧唐書では、渤海靺鞨大祚栄は本来高句麗の別種(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也)であり、風俗は高句麗、契丹と同じ(風俗與高麗及契丹同)として高句麗から派生した種族として位置付けているが、『新唐書』では、渤海は本来粟末靺鞨であり高句麗に付いていた者で、姓は大氏である(渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏)とし、高句麗との種族的関係を曖昧にしている。

韓国北朝鮮では高句麗の遺民が建てたことを重視して朝鮮民族の歴史に位置付けられる国家とみなし、渤海と統一新羅が並立した時代を南北国時代と呼ぶ。中国では靺鞨民族を主体とする東北地区の人々が建てた中国の地方政権とみなされる。 これに対しロシアでは極東少数民族による独自政権との位置づけがなされており,中国朝鮮半島との関連付けを否定する学説が提出されている。

渤海の名は本来、遼東半島山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む状の海域のことである。初代国王大祚栄が、渤海沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。

以下、本項では歴史上に存在した国家としての「渤海国」を扱う。民族としての「渤海民族」については、別項渤海人を参照。

目次

[編集] 歴史

668年の高句麗滅亡後、高句麗の遺民たちはによって営州(現在の遼寧省朝陽市)に強制移住させられていた。

690年に唐で則天武后が即位すると、内政が混乱を始める。この動揺を突いて、同じく強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、高句麗遺民らは、粟末靺鞨人指導者乞乞仲象の指揮の下に営州を脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地に帰還、東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝する事で独立を認めさせることに成功し、「渤海郡王」に冊封された。

二代大武芸は仁安と言う独自の元号を用いて独立色を明確にし、唐と対立して一時山東半島の登州(山東省蓬莱)を占領したこともあった。また唐・新羅黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送っている。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、この交流は渤海滅亡まで続き、計34回使者が行き来している。 大武芸が没するとその子大欽茂が即位し大興と改元した。父武王の唐との対立した政策を改め文治政治へと転換する。唐へ頻繁に使節を派遣し恭順の態度を示すと共に、唐文化の流入を積極的に推進し、漢籍を流入を図ると同時に留学生を以前にも増して送り出すようになった。これらの政策を評価した唐は大欽茂に初めて「渤海国王」と従来より高い地位を冊封している。この他旧国(東牟山)から上京竜泉府(現在の黒竜江省牡丹江市)への遷都を実施し、五京を整備する等の地方行政制度を整備するなど唐制を積極的に採り入れるなどし、国力の発展が見られた。

このようにして渤海発展の基礎が築かれたが、大欽茂治世末期から国勢の不振が見られるようになった。大欽茂が没すると問題は深刻化し、その後王位継承に混乱が生じ、族弟の大元義が即位後、国人により殺害される事件が生じた。その後は大欽茂の嫡系の大華璵が即位するが短命に終わり、続いて大嵩璘が即位し、混乱した渤海国内を安定に向かわせる政策を採用した。大嵩璘は唐への恭順と日本との通好という外交問題に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩璘没後は大元瑜、大言義、大明忠と短命な王が続いた。この6代の王の治世は合計して20数年でしかなく、文治政治の平和は継続したが、国勢の根本的な改善を見ることができなかった。

国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の四世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。これに対し大仁秀は北方諸部の攻略と郡県の設置を行った。特に渤海に対し独立した勢力を保有していた黒水部を攻略することに成功し、黒水府を設置した。これにより黒水部が独自に唐に入朝することはなくなり、その状態は渤海の滅亡直前まで続いた。他にも鉄利府、定理府、安辺府、懐遠府を設置し、遼東半島などをのぞいて旧高句麗の領土をほぼ回復し、「海東の盛国」と称されるようになった。

その子の大彝震の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く大虔晃、大玄錫の代まで保持されていた。

10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。この結果渤海を含む周辺諸国に対する支配体制も弱体化していった。その結果中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した大瑋瑎、それに続く大諲譔の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国されたキタイ(契丹国。のちの遼)の強い圧迫を受け、渤海は926年に滅亡した。契丹は故地を統治すべく東丹国を設置して支配したが、貴族をはじめとする領民が大挙して高麗に亡命して930年に自然消滅した。しかし、渤海における唐の制度は、契丹が中原化していくに際し参考にされ、遼の国制の特色とされる両面官制度に影響を与えたといわれる。


また東丹国が930年ごろに消滅して以降、数度にわたって遺民が渤海再興を試みるが、キタイ(契丹、遼)の支配強化によってすべて失敗に終わり、そのつど遺民は高麗へ亡命していった。しかし、黒水靺鞨から発展した女真が建てた王朝(1115年1234年)において、旧領に残った渤海遺民は厚遇され、官職につく者や、王家に嫁ぐ者もいた。金を滅ぼしたの代では、華北の渤海人は「漢人」として支配を受ける。その後、女真は満州として再び台頭するが、渤海の名称は東アジア史から姿を消してしまう。

[編集] 政治

[編集] 王権

[編集] 中央統治機構

地方統治機構に関しては唐の制度を模倣しており、『新唐書』の記載によれば三省、六部、一台、一院、一監、一局の行政機構が存在しており、名称こそ異なるが、唐の三省を模倣した行政機構が設置されていた。しかし唐の制度をそのまま移植したのではなく、渤海の現状に基づき、機構を簡略化し、唐の二十四司を十二司に圧縮して編成しているのも特徴である。

  • 宣詔省
    唐の門下省に相当し、中台省が提出した政令を審議した。長官は左相であり、品秩は正二品である。その下に左平章政事が置かれ、属官として侍中がいた。
  • 中台省
    唐の中書省に相当し、政令の草案起草と修訂を担当した。長官は右相であり、品秩は正二品である。その下に右平章政事が置かれ、属官として内史がいた。
  • 政堂省
    唐の尚書省に相当し、政令の執行を担当する行政機関の頂点に位置していた。長官は大内相であり、品秩は正二品の上位であった。助手として左右の司政が置かれ、左右平章事の下に位置していた。属官には左右のニ允がいた。下部に六部を設置し統括していた。
  • 忠部
    唐の吏部に相当し、文官の採用、考課、勲封を職責としていた。
  • 仁部
    唐の戸部に相当し、土地、銭穀を職責としていた。
  • 義部
    唐の礼部に相当し、儀礼、祭祀、貢挙を職責としていた。
  • 礼部
    唐の刑部に相当し、最高司法機関を職責としていた。
  • 智部
    唐の兵部に相当し、武官人事、地図作成、車馬武器の管理を職責としていた。
  • 信部
    唐の工部に相当し、交通、水利、建築及び技術者の管理を職責としていた。
  • 中正台
    唐の御史台に相当し、最高監察機構であった。長官を大中正と称し、唐の御史大夫に相当している。
  • 殿中寺
    唐の殿中省に相当し、王室の衣食住や行幸などの生活諸般の管理を担当した。長官を大令と称し、唐の殿中監に相当する従三品であった。
  • 宗属寺
    唐の宗正寺に相当し、王族の宗親族籍を初めとする事務管理を担当した。長官を大令と称し、唐の宗正卿に相当する従三品であった。
  • 文籍院
    唐の秘書省に相当し、経籍・図書の管理を担当した。長官を文籍院監と称し、唐の秘書督に相当する従三品であった。日本に派遣された19次遣日大使の李承英の官名が「文籍院述作郎」とあり、唐の述作局に相当する「述作局」或いは「述作署」が設置されていたことが窺える。
  • 太常寺
    唐でも同名の太常寺が存在している。礼楽、郊廟、社稷のカンチを担当した。長官は太常卿と称され、正三品であった。
  • 司賓寺
    唐の鴻臚寺に相当し、外交と周辺の少数民族関連業務を担当した。長官は司賓卿と称され、唐の鴻臚卿に相当する従三品であった。
  • 大農寺
    唐の司農寺に相当し、農業及び営田、穀倉の事務・管理を担当した。長官は大農卿と称され、唐の司農卿に相当する従三品であった。
  • 司蔵寺
    唐の太宰府に相当し、財務、貿易の事務・管理を担当した。長官は司蔵令と称され、唐の太府寺卿に相当する従三品であった。
  • 司膳寺
    唐の光禄寺に相当し、王廷の酒食の担当した。長官は司膳令と称され、唐の光禄卿に相当する従三品であった。
  • 冑子監
    唐の国子監に相当し、渤海国内の教育を担当した。長官は冑子監長と称され、唐の祭酒に相当した。

[編集] 地方統治機構

全国は5京15府62州の行政区分に分けられ、京の下に府、府の下に州が置かれた。

  • 上京龍泉府(現在の中国黒龍江省牡丹江市寧安県渤海鎮東京城)
    龍州、湖州、渤州を管轄していた。その中の龍州が府治であった
    湖州は忽汗海(現在の鏡泊湖)付近とされている
    渤州は黒龍江省牡丹江市南部の城址に比定されている。管轄県は貢珍県のみが現在に伝わっている。
  • 東京龍原府(吉林省琿春市八連城に比定)
    濊貊の故地に設けられ、上京府の東南に位置し「柵城府」とも言った。慶州、塩州、穆州、賀州を管轄していた
    慶州が府治であり、龍原、永安、烏山、壁谷、熊山、白楊の6県を管轄していた
    塩州は現在のポシェット湾岸のクラスクモ南方の城址に比定され、日本への出発港が設けられていた。下部に海陽、接海、格川、龍川の4県を管轄していた
    穆州は府の南方120里に位置し、会農、水岐、順化、美県の4県を管轄していた
    賀州の位置は不明であるが、洪賀、送誠、吉理、石山の各県を管轄していた。
  • 中京顕徳府(吉林省和龍
    上京府の南方に位置した。盧州、顕州、鉄州、湯州、栄州、興州の6州を管轄していた
    顕州は府治が設けられ、金徳、常楽、永豊、鶏山、長寧の5県を管轄していた
    盧州は中京府の東方130里に位置し、稲の産地として史書に記録がある。下部に山陽、杉盧(さんろ)、漢陽、白岩、霜岩の5県を管轄していた
    鉄州は中京府の西北100里に位置し、位城、河端、蒼山、龍珍の4県を管轄していた
    湯州は中京府の西北100里に位置し、霊峰、常豊、白石、均谷、嘉利の5県を管轄していた
    栄州は中京府の東北150里に位置し、崇山、潙水、緑城の3県を管轄していた
    興州は中京府の西南300里に位置し、盛吉、蒜山(さんざん)、鉄山の3県を管轄していた。
  • 南京南海府(北朝鮮清津付近)
    沃沮の故地に設けられ、渤海の南端に位置し、沃州、晴州、椒州の3州を管轄していた
    沃州は府治が設けられ、沃沮、鷲巖(じゅがん)、龍山、浜海、昇平、霊泉の6県を管轄していた
    晴州は南京府の西北120里に位置し、天晴、神陽、蓮池、狼山、仙巖の5県を管轄していた
    椒州は南京府の西南200里に位置し、椒山、貊嶺、澌泉。、尖山、巖淵の5県を管轄していた。
  • 西京鴨緑府(吉林省臨江
    高句麗の故地に設けられ、「若忽州」とも称された。神州、桓州、豊州、正州の4州を管轄していた
    神州は府治が設けられ、神鹿、神化、剣門の3県を管轄していた
    桓州は西京府の西南200里に位置し、桓都、神郷、淇水の3県を管轄していた
    豊州は西京府の東北210里に位置し、州府は吉林省[[安図]の仰臉山城に比定されている。下部に安豊、渤恪、隰壌、硤石の4県を管轄していた
    正州は富爾河の流域にあり、東那県らを管轄していた。
  • 長嶺府
    高句麗の故地に設けられ、営州道の要所に位置した。現在の樺甸県の蘇密城を府城とし、瑕州、河州の2州が設けられた。瑕州が府治であり、河州は現在の海龍県に比定されている。
  • 扶余府
    扶余の故地に設けられ、扶州、仙州が設けられていた
    扶州は府治が設けられ扶余、布多、顕義、鵲川の4県を管轄していた
    仙州は強師、新安、漁谷の3県を管轄していた。
  • 鄚頡府
    扶余の故地に設けられ、鄚州、高州が設けられていた
    鄚州は府治が設けられ、現在の昌図県八面城に比定されており、粤喜、万安の2県を管轄していた
    高州に関しての領県については記録が残っていない。
  • 定理府
    挹婁の故地に設けられ、定州、潘州が設けられていた
    定州は府治が設けられ、現在の依蘭県城に比定され、定理、平邱、岩城、慕美、安夷の5県を管轄していた
    潘州は沈水、安定、保山、能利の4県を管轄していた。
  • 安辺府
    挹婁の故地に設けられ、現在の双鴨山、宝清、富錦一帯に比定され、安州、瓊州(けいしゅう)を管轄していた
    安州は府治が設けられていたが、瓊州同様詳細については不明である。
  • 率賓府
    率賓の故地に設けられ、綏芬河流域に位置し、華州、益州、建州が設けられていた
    華州は府治が設けられ、現在の黒龍江省東寧大城子に比定されている
    建州は現在の双城子に比定されている。
  • 東平府
    拂涅の故地に設けられ、伊州、蒙州、沱州、黒州、比州が設けられていた
    蒙州が現在の紫蒙県に比定されていたこと以外、詳細は不明である。
  • 鉄利府
    鉄利の故地に設けられ、現在のウスリー江以東の日本海沿岸部に比定されている
    下部に広州、汾州、蒲州、海州、義州、帰州の6州は設けられていたが、詳細は不明である。
  • 安遠府
    越喜の故地に設けられ、率賓州の北、興凱湖の南に位置し、寧州、郿州、慕州、常州の4州が設けられていた
    寧州が府治であったが、それ以外に関しては不明である。
  • 懐遠府
    越喜の故地に設けられ、安遠府の北、鉄利府の美奈mに位置し、達州、越州、懐州、紀州、富州、美州、福州、邪州、芝州の9州が設けられていた
    達州は懐福、豹山、乳水などを管轄していた
    富州は富寿、新興、優富などを管轄していた
    美州は山河、黒河、麓河などを管轄していた。
  • 独奏州
    独奏州とは府に統括されず、京師に直接上奏できる州である
    渤海では郢州、銅州、涑州が独奏州として記録に残り、王室に直属していた
    郢州は延慶、白岩の2県を統括していた
    銅州は上京の南、現在のパルパ嶺一帯に比定され、花山県などを管轄していた
    涑州は現在の吉林市付近に比定されている。

上記州以外に『遼史』に記録されている集州(奉集県を管轄)、麓州(麓郡、麓波、雲山の3県を管轄)を加えることで62州となり、『新唐書』に記載される62州に合致する。しかし前記の地方統治機構は渤海存続期間において絶対的な制度ではなく、『遼史』の地理志に「安寧郡」や「龍河郡」という記録もあり、渤海前期には見られなかった「郡」が出現していることからも明らかである。このほか政治・軍事上の理由から唐制に倣い節度使を設けている。『遼史』太祖紀・下に節度使来朝の記録があり、節度使存在の傍証といえる。

[編集] 軍事制度

渤海では唐制の16衛に倣い左右猛賁、左右熊衛、左右羆衛、南左右衛、北左右衛の10衛が中央に設けられていた。また地方には府兵制]が確立されていたと考えられている。しかし渤海後期になると、府兵制が次第に崩壊し、左右の神策軍、左右三軍が設置された。これらは唐の北衙六軍との関連が認められ、渤海王室が設置した常備軍であった。

[編集] 司法制度

渤海の司法制度に関しては、唐の文宗の時代に大彜震の治世には法律の運用面で国内が安定していた事を示す史料があり、渤海は法律面でも整備が進んでいた事の傍証となっている。律令格式は他の統治方式同様に唐制を模倣したものと考えられている。

司法機関としては中正台、礼部、大理寺が任務に当った。中正台は渤海最高の監察機関であり、長官の大中正は官民の監督の他、王室内部の粛清や、礼部、大理寺と重要案件を審議する権限を有していた。礼部は渤海最高の司法機関であり、徒隷、勾覆、関禁の政令を職責としていた。大理寺は渤海最高の裁判機関であり、訴訟を担当すると共に、礼部とともに裁判員の人選を行っていた。

[編集] 対外関係

[編集] 交通

[編集] 陸上交通

陸上交通は上京府を通信に全国の京・府・州・県に放射状に道路が整備されていた。その交通路は現在の道路、鉄道に沿ったものと考えられている。またこれらの中央からの道路以外にも、5京と旧国の間にも道路が整備されていた。

道路の中で最も重要なのは「営州道」と称されるものである。これは渤海から唐に向かう朝貢使などが使用するものであり、営州(現在の朝陽市)であり、唐が東北地区を支配する要所とされていた地域であり、燕郡城(現在の義県)、安東都護府(現在の遼陽市)、新城(現在の撫順市付近)、長嶺府(現在の樺甸県付近の蘇密城)を経て上京に至る1200km弱のルートである。

新羅への交通は南京府を中心とする「新羅道」が存在していた。『三国史記』地理志には「新羅の泉井郡より柵城府に至る、凡そ三十九駅」との記載があり、泉井郡(現在の咸鏡南道の徳源)より柵城府、則ち上京府までの道路の整備状況をうかがい知ることが出来る。この他契丹との交通には扶余府を起点とする「契丹道」が設けられていた。

[編集] 水上交通

渤海の海上交通は新羅日本への通交に利用されていた。唐への交通は『新唐書』地理志に登州より渤海への交通路が記録されており、登州(現在の蓬莱県)を貴店に亀歆島(現在の砣磯島)を経て烏湖海(現在の渤海海峡)を渡り、更に烏骨江(現在の靉河)を遡上し西京府に至る「朝貢道」と称される道程が示されている。

新羅への海上交通であるが、南海府の吐号浦(現在の鏡城)から朝鮮半島の東沿岸を南下するルートと、西京府から鴨緑江に沿って海上に進み、更に朝鮮半島西沿岸南下するというルートが存在していた。しかし王都から距離のある西ルートは東ルートほど活発に利用されることはなかったようである。

日本への海上交通は「日本道」とよばれるものである。起点は上京府を基点とし陸路塩州(現在のクラスクモ)に至りそこから海上を進むというものである。海路は大まかに3ルートに分類することが出来る。その一つが「筑紫路」であり、塩州を出発した船は朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を経て筑紫の大津浦(現在の福岡)に至るルートである。当時の日本朝廷は外交を管轄する大宰府を筑前に設置していたため、渤海使に対しこのルートの使用を指定していたが、距離が長くまた難破の危険が大きいルートであった。第2のルートが「南海路」と称されるルートである。南海府の吐号浦を起点とし、朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を渡り筑紫に至るルートであるが、776年に暴風雨により使節の乗った船団が遭難、120余名の死者を出してからは使用されていない。第3のルートが「北路」であり、塩州を出発した後、日本海を一気に東南に渡海し、能登加賀越前佐渡に至るルートである。当初は航海知識の欠如から海難事故が発生したが、その後は晩秋から初冬にかけて大陸から流れる西北風を利用し、翌年の夏の東南風を利用しての航海術が確立したことから海難事故も大幅に減少し、また航海日数の短縮も実現した。

[編集] 外交

[編集] 唐との関係

大祚栄が震国を建国した当初は唐と対立していた。そのため当初は突厥や新羅との通好による唐の牽制を外交方針の基本にしていたが、唐の中宗が即位すると、張行芨を派遣・招慰し両国の関係改善の転機をもたらした。大祚栄もこの招慰を受け入れ、王子を唐に入侍させ、唐に従属する政治的地位を確認した。713年には唐は大祚栄を「左驍衛員外大将軍渤海郡王」を封じ、冊封体制に組み込まれるようになり、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として渤海の滅亡までこの関係は維持された。

招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき、子弟を唐に遣している。大祚栄の嫡子であった大門芸が派遣されたのが初見であるが、渤海からの質子は単なる人質としてではなく、皇帝の謁見、賜宴を受け、時には皇太子の加冠や謁陵、時節の朝儀などに列席するなどの待遇を受け、また唐にて客死した場合は位階の追贈や物品の下賜を受けるなどの特別待遇を受けている。これは渤海との関係が良好であったための待遇と考えられる。

この他渤海は唐の藩属として定期的に方物を献上し朝貢を行っていた。朝貢の際には「土貢」を献上すると同時に国内状況を奏上していた。この他、元旦や各節句に「賀正使」と献礼の使節を派遣した。これらの使節はほぼ毎年の派遣が記録に残されており、また1年に2~3度も施設派遣を行っていることが知られており、渤海は独立した政権を確立すると同時に、冊封体制下での唐との外交関係を滅亡まで継続していた。

[編集] 新羅との関係

698年に震国が建国された際に新羅百済全土及び高句麗の一部を領有すると共に、北進政策を採用して渤海の安定を脅かすようになった。またその渤海は唐と対立しており、唐の脅威を抑え、同時に新羅の北進を牽制するため新羅に接近する政策を採用した。当初は新羅の藩屏と称し、新羅の五品の官職である大阿飡を授位されている。しかしその後渤海と唐の関係が好転するに従い、渤海の新羅に対する依存関係は変質を来たし、大武芸の時代になると高句麗の故地の回収を目標とすることとなり両国関係は緊張、それは721年に新羅が北辺に長城を築城したことに現れている。

渤海と唐が「登州の役」で対立した際、新羅は唐の出兵の求めに応じ渤海を攻撃したが、悪天候に阻まれ新羅軍は大損害を蒙っている。この出来事は新羅の北進政策を抑制すると共に、唐と新羅の対立を政治的に解消させる効果をももたらした。新羅はこの功績により唐から寧海大使の地位を与えられ、浿江以南の高句麗の故地統治を正式に承認させることに成功したが、同時に渤海を牽制する役割をも担うこととなり、渤海と新羅は厳然と対立することとなった。

新羅との対立という状況に際し、渤海は日本と通好することで新羅を背後から牽制することを画策した。安史の乱に際し、渤海は日本と共同して新羅挟撃を計画したが、これは藤原仲麻呂の乱により計画が頓挫したことで、軍事的解決の姿勢を放棄し、以降は政治的解決を模索するようになる。790年の一吉飡の伯魚を、812年に級飡の崇正を渤海に派遣していることは、政治的な安定を模索した結果であり、新羅道の発展を創出することになる。

この良好な関係も大仁秀が即位し、渤海の領土拡張に伴い再び両国の均衡は崩壊することになる。826年には新羅の憲徳王が浿江に300里の長城を築城したことからも情勢の変化を読み取ることができる。

次に両国の関係が好転するのは10世紀の契丹の勃興の外的要因による。渤海は契丹に対抗すべく新羅との和解を図る。しかし当時の新羅は国勢が衰退し、既に後三国の時代に入っており、軍事的に渤海を支援し契丹に対抗する力は無く、そればかりか渤海の苦境に乗じ浿江以北への侵攻を行った。新羅は一面で渤海に従うそぶりを見せ、反面に使者を送り方物を献じるとう二面性の外交を展開した。遼が王都の忽汗城を包囲した際には、新羅は渤海に出兵し、更にこの軍功により耶律阿保機により褒賞を受けている。

渤海の存続期間全体を俯瞰するに、渤海と新羅の両国は基本的に対立の歴史と捉える事が可能である。

[編集] 突厥との関係

698年の渤海(当時は「震」)建国当初は後突厥汗国の躍進期に当たっており、営州の反乱の後、突厥第二帝国の第2代黙啜可汗は唐を支援し契丹を攻撃するなど、東北アジアに於ける軍事的に優勢な地位を占めていた。建国間もない不安定な渤海は、唐による侵攻に備え、使者を突厥に派遣しその支持を獲得している。その代償として渤海は突厥の属国としての地位を甘受することになり、突厥から派遣される吐屯により渤海は統制と貢賦の権限を与えられることになった。

その後唐との関係が改善され、唐が大祚栄を冊封するに至ると突厥との関係が疎遠となったが、大武芸が即位し唐と対立した際、突厥の支援を得られなかった事で関係悪化は確定的となり、唐との和解と同時に突厥と断交している。

734年、突厥は渤海に使者を派遣し、契丹の挟撃を打診されるが、渤海はこの要求を拒否、更に使者を抑留し唐に移送し処理を委任するという行動に出て突厥との関係悪化は決定的なものとなった。その後突厥は内紛と唐との闘争により急速に勢力を衰退させ、渤海との紛争を起こす余力は無くなり、745年回紇により突厥は滅亡した。

[編集] 契丹との関係

渤海建国に当たっては営州の反乱と契丹の反唐活動により、大祚栄が独立する契機を生じたことから、両者には特別な関係が存在していたと推測される。720年に唐が渤海に対し契丹及びへの攻撃を打診した際に、唐の冊封体制下の渤海は出兵の義務を有していたにも関わらず、これを拒否していることからも推測されるものである。

しかし唐との関係が改善されるに反比例し、渤海と契丹の関係は冷却化の一途を辿った。それは渤海後期に扶余府一帯に契丹の侵入を防ぐべく常備軍を駐留させた記録からも窺えるものである。当然渤海は契丹人の反逆者の亡命を受け入れるようになり、契丹王室の轄底が渤海へ亡命した記録などもある。それでも『新唐書』で渤海の風俗を「高麗、契丹と略等し」と表現されるように文化的な親密さは相当なものであり、両者の経済的、文化的な交流は持続され、それは契丹道と称される重要な対外交通路の地位を占めていた。

渤海末年、渤海の勢力は衰退し、926年には契丹人による国家、により滅ぼされ、その故地には東丹国が建国された。

[編集] 回紇との関係

回紇は鉄勒諸部の一つであり、バイカル湖南方で遊牧を中心に生活していた。8世紀半ばに後突厥を滅ぼし、また唐を支援して安史の乱を平定するなどの軍事活動を行うと同時に、経済活動も活発に行われ、渤海とは経済・文化方面での交流が行われていた。回紇商人の足跡は上京府以外にも、率賓府のような辺境地域でも遺物から認められ、古ウスリーク城からは突厥文字が刻字された回紇人の遺跡が、沿海州のチャピゴウ河岸の渤海寺院跡から出土した景教の陶牌からも回紇人の渤海に於ける活動を示している。しかしその文化・経済交流も840年に回紇の政権崩壊により消滅してしまった。

[編集] 黒水靺鞨との関係

渤海建国当初は黒水靺鞨諸部は独立した勢力を有しており、また唐との対立と、周辺諸部に対する支配強化を推し進める渤海は黒水靺鞨に対し懐柔策を採用した。当初は突厥の支配を受けていた黒水靺鞨であるが、次第に突厥の支配を脱し唐へ帰属する路線への転換を図った。722年に首長の倪属利稽が朝見し、勃利州刺史に冊封され黒水府を設置するに至ると、唐と黒水靺鞨による渤海挟撃を伊具した大武芸は黒水靺鞨に出兵している。

大欽茂が即位すると唐との大幅な関係改善が見られ、必然的に黒水靺鞨との緊張状態の緩和を見るに至った。大仁秀の時代になると、渤海により海北諸部の討伐が行われ、黒水靺鞨は渤海に服属し、独自に唐に朝見を行うことはなくなったが、渤海の統治に対する反乱が発生し、黒水靺鞨中心部に渤海の行政機構を設置し、直接統治を行う事は最後まで実現しなかった。

渤海末期の9世紀になると、黒水靺鞨は新羅との連盟を模索するなど自立の道を探るようになり、また渤海の衰退により黒水靺鞨に対する統治が弱体化したことで、最終的には渤海の従属的地位を脱し、924年には後唐に使節を送るようになった。

[編集] 日本との関係

詳細については渤海使の項目を参照のこと。

渤海と日本の関係は当初は新羅を牽制する為の軍事的性格が強かった。唐から独立した政権を確立した渤海であるが、大武芸の時代には唐と対立していた。その当時の周辺情勢は黒水部は唐と極めて親密な関係にあり、新羅もまた唐に急速に接近しており渤海は国際的な孤立を深めていた。この状況下、大武芸は新羅と対立していた日本の存在に注目した。727年、渤海は高仁義らを日本に派遣し日本との通好を企画する。日本側はこれを歓応し、引田虫麻呂を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は渤海滅亡時まで継続した。

[編集] 経済

[編集] 農業

農業では考古学の成果より渤海全域での鉄器の使用、牛耕の利用が確認されている。これらの農器具を利用し、渤海では五穀と称される、黍(もちきび)、稷(きび)、、菽が広く栽培されていた。これ以外に忽汗水流域の荏(えごま)、盧城の稲、丸都の李、楽游の梨など各地で特徴ある作物が栽培されていたことが知られている。また前後時代の記録を見ると葵菜の栽培や、渤海の使節が来日した際に渤海人の好む大韮を用意した記録からも、様々な野菜が栽培されていたことを窺い知る事が出来る。

[編集] 牧畜業

渤海では馬の飼育が重視されていた。これは軍事的な需要の他、駅站交通や貿易需要からもかなりの数が生産されていたことが知られている。また豚、牛、羊などの飼育も盛んであり、それらは渤海人の墳墓の中からそれらの骨が発掘されることからも十分に窺える。

[編集] 漁業

渤海の漁業は相当の技術発展を遂げており、唐へ奉献した方物の中に「鯨魚睛」と称される鯨の眼球が含まれていたことから規模の大きい捕鯨までを可能とする段階に達していた。また各地の特産品として湄沱湖(現在の興凱湖)の鯽(フナ)や、忽汗海(現在の鏡泊湖)の「湖鯽」などが記録に残っており、この他文昌魚(鯉の一種)、鰉魚(チョウザメ)、大馬哈魚()、斑魚、鯔魚などが記録に残っている。

[編集] 狩猟業

唐への朝貢記録には鷹、鶻が進貢されており、特に海東青は鷹狩りの珍品とされ、貴重な貢者として唐へ献上されていた。他にも太白山(現在の長白山)の兎や扶余の鹿などは特産品として『新唐書』に記録されている。また日本との関係で重要な地位をしめたものが貂である。日本の貴族間で珍重された貂皮は当時の日本における最先端ファッションとして受け入れられていた。

[編集] 紡績業

[編集] 手工業

[編集] 商業

発掘例ま未だ確認されていないが、商品経済が発展していく中で渤海では貨幣が使用されていたと考えられている。それは大武芸が日本に送った国書の中で「皮幣」の文字を使用していること、873年に日本で貿易を行った際に、賜銭を得て日本の物産を購入していること、滅亡に際して野耶律阿保機が「獲る所の器、幣」を将士に分け与えたことからも物々交換の段階を超え、貨幣が流通していた事を示すものと考えられている。

[編集] 貿易

[編集] 文化

渤海は唐に対して何度となく使者を送り、それに付随して留学生を唐へ送り文化を吸収させ、持ち帰らせた。この事により渤海の上層部は儒教的な教養を得、それを元に国政に当たったと思われる。

前述したように日本との通使も行われており、初期は新羅・唐に対する軍事的な牽制の意味合いが強かったが後半になると儀礼的・商業的な意味合いが強くなっていった。渤海からの遣日使は形式的には日本への朝貢とされていたため日本側は渤海側の使者を大いに歓待をしており、この財政的負担がふくらんだために後期では12年に1回と回数の制限も行われている(遣渤海使)。また、その際に日本との文化交流が積極的に行われている。一例として菅原道真と渤海の使者との間で漢詩の応酬が行われたとの記録がある。

宗教的には仏教の信奉が篤く、首都上京の遺跡からは多くの寺・仏教関係の建物が発見されている。

渤海文化は唐の影響が非常に強いが、高句麗文化の継承もされており、二つの文化から独自の文化を作り出している。

[編集] 渤海史主要年表

事跡
668年 により高句麗滅亡、平壌安東都護府を設置
高句麗遺民は満洲の営州に強制連行される
671年 新羅戦争始まる
697年 契丹・李尽忠の乱
靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走
唐、安東都護府を廃止
698年 大祚栄、震国建国
705年 大門芸が唐に入侍
唐による侍御史を震国に派遣
安東都督府復活
713年 唐、大祚栄に渤海郡王に冊封
719年 大祚栄卒し、大武芸即位
721年 新羅による東北国境での長城建設
722年 黒水靺鞨が渤海領を通過して唐に遣使
725年 唐により黒水靺鞨に黒水府が設置される
726年 大武芸の弟・大門芸、唐に亡命
727年 渤海、高仁義らを日本に派遣。蝦夷地に漂着したため高仁義等多数が殺害され、残った者が高斉徳に率いられ入京
728年 日本、送渤海使を派遣
732年 渤海の将・張文休、水軍を率いて山東の蓬莱港を占領
733年 唐、大門芸に命じて渤海を攻撃させるが、大雪のため失敗
738年 大武芸卒、大欽茂即位
739年 遣唐判官・平群広成、渤海使とともに帰国
746年 渤海人及び鉄利人1100人出羽国に漂着
749年 この頃、旧国より中京顕徳府に遷都
755年 この頃、中京顕徳府から上京龍泉府に遷都
762年 唐により大欽茂を渤海国王に冊封
774年 大興から宝暦に改元
777年 日本の舞女11人を唐に献上
779年 渤海人通事、日本の朝廷で鉄利人と席を争う
785年 上京龍泉府から東京龍原府に遷都
790年 新羅、伯魚を渤海に派遣
793年 大欽茂卒
弟・元義が即位するが廃位され、嫡孫が即位
都を東京龍原府から上京龍泉府に戻す
798年 唐により大嵩璘を渤海国王に冊封
809年 唐により大元瑜を渤海国王に冊封
810年 日本からの最後の第15次遣渤海使
812年 新羅が崇正を派遣
813年 唐により大言義を渤海国王に冊封
818年 唐により大仁秀を渤海国王に冊封
821年 王文矩を日本に派遣
826年 新羅、渤海との国境に長城を築く
830年 大仁秀卒、大彜震が即位
咸和と改元
833年 賀守謙を幽州盧龍節度使に派遣
唐により張建章の渤海遣使
853年 張建章が幽州に戻り『渤海記』を著す
860年 李居正を日本に派遣
906年 宰相の烏炤度を唐に遣使
その子の光賛、賓貢に及第
907年 唐滅亡。渤海
911年 大光賛を後梁に派遣
918年 に使節を派遣
919年 最後の渤海使を日本に派遣
924年 渤海軍、契丹軍占領中の遼東に反攻
925年 契丹軍、渤海の扶余府に侵攻
礼部卿の大和釣ら100戸を率いて高麗に投ず
926年 契丹軍、上京龍泉府を攻略。渤海滅亡
契丹、渤海故地に東丹国設置。
928年 東丹国、遼陽に遷都
929年 東丹国使、来日
930年 日本との通交が絶える
以降、東丹国が史料から消滅

[編集] 渤海王の一覧

  1. 高王 大祚栄698年 - 718年
  2. 武王 大武芸718年 - 737年
  3. 文王 大欽茂(737年 - 793年
  4. 大元義(793年 - 794年
  5. 成王 大華璵(794年)璵は「王」に「與」
  6. 康王 大嵩璘(794年 - 808年)璘は「王」に隣の旁
  7. 定王 大元瑜(808年 - 812年
  8. 僖王 大言義(812年 - 817年?)
  9. 簡王 大明忠(817年? - 818年?)
  10. 宣王 大仁秀(818年? - 830年
  11. 大彝震(830年 - 857年
  12. 大虔晃(857年 - 871年
  13. 大玄錫(871年 - 895年
  14. 瑋瑎895年 - 907年?)瑋は「王」に「韋」、は「王」に「皆」
  15. 諲譔907年? - 926年は「言」に湮の旁、は「言」に「巽」

[編集] 渤海国の継承国家

※皇帝を称したもの

※王を称したもの

  • 後渤海
    • 渤海(復興)928年~976年
    • 渤海(大光顕の勢力)930年~934年
    • 渤海(再興)989年~1018年
  • 定安 938年~1003年
  • 兀惹(烏舎城渤海)981年~996年以後

※その他、渤海遺民によるもの

  • 大鸞河の勢力 979年〜984年

※異民族によるもの

  • 東丹 926年~930年
  •  1115年〜1234年

[編集] 渤海の元号

[編集] 歴史論争

渤海は先の高句麗と同様、朝鮮民族の王朝か、中国大陸の地方政権かということで大韓民国北朝鮮中華人民共和国の間で論争となっている。韓国、北朝鮮は高句麗を継承して新羅と対立して北に興った朝鮮民族系の王国という立場をとっており、新羅と渤海が並立した時代を「南北王国時代」と呼んで歴史教育を行っている。一方、中国もまた高句麗同様に渤海は中原の王朝から冊封を受けた地方政権のひとつであるという立場を貫いており、双方は対立して譲らない。中国としては韓国と北朝鮮の統一後に表面化すると思われる国境問題と朝鮮族帰属問題を事前に牽制する為に高句麗、渤海問題を利用していると見られる。 またロシアの歴史学界からは、旧ソ連の時代以来、渤海は極東少数民族による自立した独自の文化・社会を有した国家であり,中国や朝鮮半島に関連付けることに反対する学説が提示されている。 いずれもそれぞれの国家の現代政治を強く反映した学説であり,恣意的な資料の解釈に走りがちな傾向があると言えよう。

[編集] 内部リンク

[編集] 外部リンク

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