兀惹
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兀惹(981年~996年以降)は、契丹の征服による渤海の滅亡後、渤海人貴族が契丹の支配に抵抗して建国した政権。「兀惹国」「烏舎国」「烏舎城渤海国」「烏惹」「媼熱部」(ただし媼は女ヘンでなく口ヘン)などと書き、「兀惹=烏舎=烏惹=媼熱」で、[weji]に近い発音だったようである。今の賓州。弱小だったが中国文化を受け入れていた。
[編集] 遼代の兀惹国
契丹の征服による渤海の滅亡後、紆余曲折を経て渤海国の故地には、渤海人の政権定安国が存在していた。981年、定安国王烏玄明は女真の使者に託して北宋に上表し「高麗の旧壌と渤海の遺黎を以て方隅に保拠す云々、扶餘府が契丹に背いて帰順し、契丹の脅威が迫っているから宋に救援を依頼したい」等と述べた。宋も詔をくだし宋・高麗・定安の三国による契丹包囲網ができたが、北宋はまた「烏舎城浮渝府渤海[王炎]府王」なる者に詔を下し、契丹を討たしめようとしたという。この「浮渝府」とは「扶餘府」のことであろう。定安国側は宋に対し、扶餘府が自国に帰順したかのように説明したが、烏舎国として独立し王と称していたことがわかる。しかし986年に定安国は契丹に攻められ壊滅してしまう。その後995年に渤海人貴族烏昭慶が挙兵したが(「兀惹国」)、翌996年、契丹に降伏した。契丹への抵抗運動は後渤海国に引き継がれる。
[編集] 金代の兀惹国
金帝国の時代には、兀惹国の長は烏氏から李氏にかわっていた(渤海人からツングース系にかわっていたとみる説もある)。部族長の「李靖」の妹「金哥」が、金帝国の第三代皇帝の伯父で金太宗の皇子でもある「固侖(グルン、侖は石ヘン。別名「宗幹」)」の側室となった。兀惹国=烏舎国は文化が高くその教養を買われたとのことらしい。この金哥の生んだ子が宗幹の長子「充(本名「神土懣」)」で、この人は第四代皇帝・海陵王の兄であり、またなかなかの教養人であった。