相合元綱
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相合 元綱(あいおう もとつな、? - 大永4年4月8日〔1524年5月11日〕)は、戦国武将・毛利氏一族。毛利弘元の3男で、毛利興元・毛利元就の異母弟。通称は相合四郎(あいおうしろう)・少輔三郎(しょうのさぶろう)。正式な名は大江元綱(おおえ の もとつな)。
所領の名を取り姓を「相合」と名乗る。子に敷名元範。武勇に優れ「今義経」の異名を取ったといわれる。
1517年の有田中井手合戦に参戦し、兄・元就と共に武田元繁を撃破する。
1523年、甥の毛利幸松丸が病死すると、異腹兄の元就が後継者となることが決定する。しかし尼子氏を後ろ盾とする桂広澄・坂広秀・渡辺勝らに擁立され、毛利氏当主の座を狙うこととなる(一説には尼子豊久を毛利氏の娘婿として当主に立てて、自らはその後見人となる予定であったとも言う)。兄の元就暗殺を画策したが、知略に優れた元就がこれを見逃すはずもなく、当然露見し、先手を打った元就によって殺害される。
この一件には尼子氏重臣の亀井秀綱が絡んでおり、当然その背後には尼子経久が居たのである。元綱を殺害した後、元就は尼子氏から大内氏への接近を図ることとなった。
なお元綱の子・元範は幼少であったため、罪を許され、後に敷名姓を名乗り、毛利氏家臣として忠勤を励んでいる。
相合元綱は兄・元就とも仲は良く、武勇に秀でた優秀な武将ではあった。しかし当主への執着が強く、結果的に身を滅ぼしている。
このような悲劇を乗り越えた毛利元就は、兄弟の関係を大切にするよう子の隆元や元春、隆景に強く諭し、その結果3人の兄弟は毛利氏をよく支え「毛利両川体制」を築き、毛利氏は中国地方の覇者となるのである。