桂元澄
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桂 元澄(かつら もとずみ、1500年(明応9年) - 1569年8月17日(永禄12年7月5日))は、戦国時代の武将である。毛利氏の家臣。桂広澄の子。元貞・元親・景信・広繁・広時の父。妻は福原広俊娘。後妻は志道広良娘。
1523年、毛利元就が家督相続したさいには、15人の宿老の一人として起請文に署名している。しかし、翌1524年に父・広澄の弟である坂広秀が元就の弟・相合元綱を擁して元就に謀反を起こしたため、広澄は責任をとって自害、その際に元澄は元就に自刃をとめられる。その後は元就の忠臣として仕えた。
元就の隠居後も児玉就忠とともに親元就派の立場をとり、隆元の奉行人である赤川元保らとはたびたび対立している。
1555年、厳島の戦いでは陶晴賢に偽の内応書を送って陶軍を厳島に誘き寄せるという軍功を挙げた。以後、桜尾城主として厳島の管理に当たった。
1569年没。墓は晴賢と同じ現在の広島県廿日市市の洞雲寺にある。
弟の元忠は毛利隆元の五奉行の一人になっている。元就には、知恵はないが正直者と評され信任された。もう一人の弟就延は井上氏粛清のさい活躍している。