布川事件
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布川事件(ふかわじけん)とは1967年(昭和42年)に茨城県で発生した強盗殺人事件である。犯人として近所の青年2名を逮捕・起訴し無期懲役が確定したが、証拠が被告人の自白のみであり当初から冤罪の可能性が指摘されており、2006年現在、再審手続きが進められている。
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[編集] 事件の概要
1967年8月30日の朝に、茨城県北相馬郡利根町布川で独り暮らしの男性(当時62歳)が、大工仕事を依頼しに来た近所の人によって自宅8畳間で他殺体で発見した。
捜査機関による死体検視と現場検証によれば、男性の死亡推定時間は8月28日の午後7時から11時頃であるとされ、男性の体には両足をタオルとワイシャツで縛られ、首にはパンツが巻きつけられ口にもパンツが押し込まれるており、絞殺による窒息死と判明した。現場の状況は玄関と窓は施錠されていたが、勝手口はわずかに開いていた。室内は物色した形跡が認められたが、何を盗まれたかは判明しなかった。ただし男性は個人的に金貸しを行っており、現金もしくは借金の借用書などが盗まれた可能性があった。唯一判明したのは男性が普段使用していた「白い財布」が発見されなかった。また現場から指紋を43点が採集された。
男性の自宅付近で午後8時ごろに不審な2名組の男性の目撃情報があり、その情報から当時20歳と21歳の男性が別件逮捕され、2ヵ月後に起訴された。
[編集] 再審請求
公判で2名の男性は「自白は警察に強要されたものである」として、全面否認したが、1970年10月16日に第一審の水戸地裁土浦支部は「無期懲役」の判決を下し、1973年12月20日の第二審の東京高裁では「ほかに犯人がいるのではないかと疑わせるものはない」として控訴棄却し、1978年7月3日に最高裁で上告が棄却され、2名とも無期懲役が確定した。収監された2名であるが1996年11月に仮出獄したが、現在まで無実を訴えており、民間人の有志による「布川事件守る会」が2001年に第二次再審請求(1回目は収監中の1983年に行われ棄却された)を水戸地裁に申立てしており、2005年9月21日に再審を決定した。
[編集] 疑問点
この事件では犯行を実証する物的証拠が少なく、男性2名の自白だけが有罪の証拠であったが、その自白が男性2名によれば取調官による誘導尋問の結果なされていると主張されているほか、自白と実際の犯行現場の情況が客観的に見て有罪とするには不審な点が多い。そのため再審請求が認められたといえる。
- 金銭目的の強盗殺人とされているが、何が実際に盗まれたのかを明確にしていない。被害者の白い財布の件も供述調書では一転、二転しており犯行後どのようになったかが明確になっていない。
- 43点の指紋が採集されたが、肝心の被疑者2名の指紋が現場から一切でていない。裁判では指紋は拭き取ったとしているが、物色されたはずの金庫や机から多くのの指紋が検出されている矛盾点については説明がなされていない。
- 被害者宅へ侵入した方法についての自白が不自然である。供述調書によれば「勝手口の左側ガラス戸を右に開けると、奥の8畳間から顔を出した被害者の顔が見えた」しているが、現場の勝手口は左ガラス戸の内側に大きな食器棚が置かれていたため、わざわざ障害物がある方の戸をあけるのは不自然であるし、第一被害者の顔が見えるはずもない。また反対側の戸は40cm程度は開けられるが、自白自体が捏造された疑いが生じる。
そのため、再審決定では「自白の中心部分が死体の客観的状況と矛盾する」とされ、「捜査官の誘導に迎合したと疑われる点が多数存在する」と認定された。ほかにも「周囲が暗くなっている当時の状況などから2人と特定できない」ともされていた。これらの証拠は確定判決後に証拠開示で判明したが、これらが有罪認定に合理的な疑いが生じるだけのものであり、自白が否定されても犯行を裏付けるだけの物的証拠にさえならないものであった。た」との主張を認め、「証拠能力は限られたもので、自白を直接補強するものではない」として、再審を決定したいる。
なお、現場では毛髪が8本されていたが、この毛髪の鑑定結果については検察側がそのような存在を否定していたが、2005年になって検察側から弁護側に鑑定書が開示された。これによると、被疑者の毛髪はなく加害者の物も存在しないというものであり、被疑者とされた2名の無罪の証拠とされるのを防ぐために隠匿されたと疑われている。