赤松政則
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赤松 政則(あかまつ まさのり、1455年(康正元年) - 1496年6月6日(明応5年4月25日))は、室町時代の武将である。播磨の守護大名。赤松時勝(性存)の子。妻は細川勝元の娘。養子に赤松義村。官位は左京大夫。兵部少輔。幼名は次郎法師丸。
赤松氏は嘉吉元年(1441年)に赤松満祐が将軍を殺害した嘉吉の乱で滅亡していたが、長禄2年(1458年)に赤松氏の遺臣が後南朝から神爾を奪回した功績により政則の家督相続が許され、政則は浦上則宗らに補佐されて赤松氏の再興を行う。文正元年(1466年)に細川勝元らにより8代将軍足利義政の近臣であった伊勢貞親や禅僧の季瓊真蘂らが政界を追われる文正の政変が起こると、政則も失脚。
幕府では勝元と山名持豊(宗全)が対立しており、政則の播磨は山名氏と接することから、政則は勝元の支援を受ける事で政界に復帰する。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では東軍細川勝元側に与して活躍し、赤松氏の旧領であった備前・美作を回復し、山城国守護や侍所の所司にも任じられた。乱の収束後も山名氏との領地争いは続き、文明15年(1483年)には敗北。猿楽師を家臣とするなど家中での反感を買い、政則を追放して一族の有馬澄則を擁立しようとする動きが現れ、和解する。長享2年(1488年)に山名氏を撃退して領国支配体制を確立する。
9代将軍足利義尚にも仕え、明応2年(1493年)、細川政元の妹(姉?)洞松院を娶る。翌年には従三位に叙任。将軍以外の武家の三位叙任は初であった。明応5年(1496年)4月25日、播磨加西郡坂田の長円寺で病死。享年42。法号は松泉院無等性雲。六道珍皇寺寺に肖像画所蔵。