富田メモ
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富田メモ(とみためも)は昭和天皇の側近で宮内庁長官だった富田朝彦がつけていた日記の内、特に昭和天皇の靖国神社参拝に関する私見を記述したとされる部分。
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[編集] 概要
富田が宮内庁次長(1974年-1978年)と宮内庁長官(1978年-1988年)を勤めた時期に残した日記やメモには、昭和天皇の側近として、会話した内容や天皇の発言が記録されているとされる。2003年に富田が亡くなった後も日記は残された。
2006年7月20日に日本経済新聞朝刊で日記の存在がスクープされ、その中で昭和天皇が第二次世界大戦のA級戦犯の靖国神社への合祀を不快に感じたと語った、という内容が注目された。その部分がやがて報道機関内で「富田メモ」と称されるようになった。
朝日新聞の清水健宇記者は、富田自身にメモを公開するよう頼んだところ、棺桶まで持っていくつもりだと聞かされたというが、夫人は産経新聞や上坂冬子の取材に対し「焼却するように言われた事実はない」と反論している。
[編集] 富田メモ報道
[編集] 日本経済新聞の報道
日本経済新聞は2006年7月20日朝刊で「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感」という見出しで富田メモについて報じた。
1988年4月28日(昭和天皇誕生日前日)のメモに、昭和天皇がA級戦犯、特に「松岡」(松岡洋右と解釈されている)と「白取」(白鳥敏夫と解釈されている)が靖国神社に合祀されたこと、また、靖国神社宮司の筑波藤麿が合祀を保留していたのに次の宮司である松平永芳が合祀してしまったことを批判されたという内容が書かれていたという。
この報道は2006年度の日本新聞協会新聞協会賞(編集部門)に選ばれた。受賞者は井上亮記者。
[編集] 影響
小泉純一郎総理大臣が終戦記念日の8月15日に靖国神社に参拝するべきかどうかで議論が盛んだった時期なのでこの議論に波紋を広げた。
参拝すべきではないという立場からは、昭和天皇の心を考えればなおさら参拝すべきではない、という意見がでた。一方、参拝すべきという立場からは天皇の政治利用だ、といった批判がでた。小泉総理大臣は自らの靖国参拝への影響を否定し、後日8月15日に靖国参拝を行った。
また、昭和天皇が1975年11月21日以降靖国神社に参拝しなくなった原因として、A級戦犯合祀が問題だったという説を裏付けるものだと一部メディアは報じた。ただし、別に原因があると指摘する人も有る。
中華人民共和国や大韓民国では靖国神社に否定的な立場から、このメモを歓迎した。
日本経済新聞東京本社社屋には記事掲載の翌日、火炎瓶が投げ込まれた。犯人は捜査中。
[編集] 日本経済新聞社への批判
日本経済新聞社は1988年4月28日前後だけしか公開せず、ほかの部分は非公開とした。富田メモの内容の分析は専門家に依頼したというだけで、専門家がだれなのかも公表しなかった。
このため、日本経済新聞社は都合の悪い部分を隠しているのではないか、内容の分析は妥当なものなのか、このメモ自体本当に当時富田長官が書いたものなのか、といった批判を浴びた。信憑性については、2006年9月1日の産経新聞の富田元長官の夫人への取材では、夫人が自らメモを公表したことを明らかにしている。
日本経済新聞社は依然として内容の分析を行った専門家がだれなのか公表していないが、文藝春秋 2006年9月号で半藤一利、秦郁彦が内容分析を行ったと明らかにしている。他の専門家が関わったかどうかは不明。
[編集] 捏造説
富田メモに関してはその信憑性が大いに問題になった。以下に主要な根拠を列挙。
- このメモにある昭和天皇の発言を記してある部分だけが紙に書いて貼ったものであり、後から貼り付けた偽物ではないかとする主張。
- 崩御数ヶ月前(1988年4月28日)の発言であり、当時の体調を考えるとこのような事を仰せになることが可能だっただろうかとする主張。
- 好きなテレビ番組やひいきにしている力士の名前すら公言しないほど、天皇としての公平性に重きを置いた昭和天皇が、名指しで人を批判する事があっただろうかとする主張。
- 昭和天皇ではない人物の発言をメモしたものではないかという主張。発言の主として富田本人、あるいは似た主張をもつ徳川義寛侍従長の名が擬せられる。
- このメモが公表される以前に日本経済新聞社社長が極秘に中国を訪問していることから何らかの圧力を受けて偽のメモを公表したとする主張。
・このメモが発表された時期・経緯を考慮すると捏造の可能性は否めない。
[編集] 参考文献
- 文藝春秋 2006年9月号