宮本輝紀
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男子 サッカー | ||
銅 | 1968 | サッカー |
宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2000年2月2日)は、広島県広島市出身の元サッカー日本代表選手。攻撃的ミッドフィールダー(MF)としてメキシコオリンピック銅メダル獲得に貢献した。日本最初の司令塔(ゲームメーカー)と呼ばれる名選手である。
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[編集] 来歴
1945年8月、4歳の時原爆で一緒に遊んでいた弟を亡くす。サッカーの強豪だった広島高等師範(現広島大学)の大学生にサッカーを教わった。中学で野球部からサッカー部に移り、広島山陽高校時代は2、3年と国体で準優勝した。特に1958年の杉山隆一のいた静岡県立藤枝東高校との雨中の死闘は有名。翌年、1959年の第1回アジアユース大会でも高校選抜に選ばれアジア3位にも貢献した。広島高師出身で東福岡高コーチでも知られる名将寺西忠成の目にとまり八幡製鉄サッカー部(後の新日本製鐵八幡)に入団した。八幡製鉄でもエースとして活躍。1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)では宮本をマークしてどう抑えるかが、対戦相手のテーマだった。初年度から二年連続2位だったが、通算139試合に出場。1964年度の天皇杯優勝に導いた。また1967年度の年間最優秀選手にも選ばれ、1970年にはアシスト王に輝いた。
1964年東京オリンピックから全日本(日本代表)の頭脳となりゲームを組み立てた。「天才パサー」と呼ばれ、一本で相手を窮地に追い込むキラーパスは今の中田英寿以上、とも言われる。前線の釜本邦茂や杉山にパスを供給するのが日本の攻撃パターンだった。当時「パワーの釜本、スピードの杉山、テクニックの宮本」と呼ばれ、このトライアングルはサッカー選手を志す少年たちの憧れだった。パスもさる事ながらゴールにも迫りシュートも連発した。振り幅の小さいシュートでゴールを量産し、MFながら国際Aマッチ20得点は歴代7位、代表での全試合では歴代4位の47得点(出場192試合(歴代3位))を挙げている。いずれもメキシコ五輪世代では釜本に次ぐ数字である。
1976年現役引退。1976年新日鐵監督に就任したが、オイルショック後で補強が厳しくチームは低迷。4年で監督を退いた。1993年からスタートしたJリーグに新日鉄は、地域性から参加を要請されたが、参加しなかった。
派手嫌いで実直な人柄で知られ、選手として頂点を極めて引退した後も勤務地である北九州市にとどまり、中央に出てくることは無かった。1996年、九州共立大学(北九州市)のサッカー部監督に就任、わずか2年で九州大学リーグ一部に昇格させたが、2年後の2000年、胃がんで帰らぬ人となった。享年59。
[編集] 経歴・タイトル
- 八幡製鉄/新日本製鐵:138試合68ゴール (1959年-1976年)
- 日本代表:196試合47ゴール (1960年-1971年)
[編集] 指導経歴
- 新日本製鐵:コーチ (1974年-1975年、選手兼任)
- 新日本製鐵:監督 (1976年-1979年、1976年は選手兼任)
- 国体福岡県代表:監督 (1981年-1985年)
- 九州共立大学:監督 (1996年-1999年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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