松本育夫
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男子 サッカー | ||
銅 | 1968 | サッカー |
松本 育夫(まつもと いくお、1941年11月3日 - )は栃木県宇都宮市出身の元サッカー選手で、サッカー指導者。現在は、Jリーグデビィジョン2(J2)・サガン鳥栖の監督。
2007年2月1日より株式会社サガンドリームスの、専務執行役員ゼネラルマネージャーに就任することになっている。
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[編集] 選手時代
栃木県立宇都宮工業高等学校から早稲田大学第二政治経済学部に進学。高校在学中から将来を嘱望されていたと言われ、大学に入学したばかりの1960年に早くも日本代表として初選出された。1964年、大学を卒業し東洋工業サッカー部に入部するが、同年の東京オリンピック日本代表からは選に漏れた。
その後長沼健監督時代には代表の常連となり、1968年メキシコシティオリンピックで、今度は川淵三郎から右ウイングのポジションを奪い、渡辺正と同ポジションを分け合う形で日本の銅メダル獲得に貢献し、FIFAフェアプレー賞も受賞した。また、所属する東洋工業ではサイドアタッカーとして活躍、小城得達、石井義信、今西和男らと新たに創設された日本サッカーリーグ(JSL)初年度の1965年から1968年まで不滅の4連覇の原動力となった。
[編集] つま恋事故
その後も東洋工業から改名したマツダに在籍し社員およびサッカー部監督として働く一方、ユース日本代表監督など指導職を歴任した。1979年に日本で開催されマラドーナ、ディアスが活躍したことで知られる第2回ワールドユーストーナメントのユース監督時には、尾崎加寿夫、風間八宏、鈴木淳、柱谷幸一、水沼貴史ら後のフル代表の主力選手を抜擢した。また、しばしばサッカー解説者としてテレビにも登場、独得の高い声は昔からサッカーファンにとっては、耳にこびり付いて離れないほど。サッカー解説、と言えば岡野俊一郎と松本育夫である。サッカー不遇の時代を支えた一人でもある。
1983年11月22日、マツダの人材開発担当としてヤマハのつま恋研修所で800人の就職内定者のための研修会準備を行っていた際、ガス爆発に巻き込まれた。死者14名、重軽傷者28名を出したこの「つま恋ガス爆発事故」で、自身も四肢の複雑骨折と全身40パーセントの熱傷という瀕死の重傷を負いながら、自力で脱出。救急車の中で「サッカーを続けたいので足だけは切らないでくれ」と懇願したと本人は述懐している。1週間の危篤状態が続きながらも奇跡的に回復し、厳しいリハビリを経て現場に復帰した。
1985年のアジアユースの監督時には、井原正巳、中山雅史、黒崎久志、真田雅則、磯貝洋光、前川和也ら後のJリーグを支える選手を選抜した。またこの時に、元々攻撃的な選手であった井原正巳をスイーパーにコンバートさせた。
[編集] マツダ以後
Jリーグ創設時、在籍したマツダサッカー部(後のサンフレッチェ広島)は、参加10チームに当確だったが、一転親会社のマツダが財政的理由から降りようとした。この時、関係者の折衝に尽力した。1996年にマツダを退職、同年から1999年まで京都パープルサンガでゼネラルマネージャーを務めた。
1999年シーズン途中、川崎フロンターレに招聘され監督に就任。不死鳥のように蘇った強い精神力と熱血指導で、前年のJ1参入決定戦に敗れ、J2のシーズンが始まっても調子の上がらなかった川崎のチーム状態を建て直し、同年のJ2で優勝、悲願のJ1昇格を実現させた。しかし翌2000年は実権のない社長職に追いやられる。急にチームの根幹を変えたチームは序盤から低迷し、結局シーズン最下位でJ2降格、松本は社長を辞任した(川崎はその反省もあったのか、2度目のJ1昇格となった2005年は前年監督の関塚隆を続投させ、そして最終的には8位と上々の成績を収めた)。
2002年、長野県の通信制高校である私立地球環境高等学校で監督に就任。わずか7ヶ月という短期間でチームを作り上げ、同年末の高校選手権で長野県代表を勝ち取るという偉業を成し遂げた。翌2003年の高校総体でも長野県代表となったが、拡大主義を志向する高校側と意見がぶつかり、2003年8月で辞任。
[編集] サガン鳥栖
2004年にはJリーグから要請され、混乱の極にあったJ2のサガン鳥栖で監督に就任。一時は躍進の気配を見せるものの、経営面でのゴタゴタや戦力不足等により11位に終わった。
2005年には鳥栖の経営が安定し、また自身の裁量で戦力補強を行ったことにより、前半戦は2位に進出し、優勝した京都パープルサンガに唯一勝ち越すなど健闘を見せた。DFなどに怪我人が続出して最終的には8位に終わったが、2002年から3年間二桁勝利すら挙げられなかったことを考えれば、健闘したと言える。オフには一部で「総監督」就任の話が出たが(その場合、後任監督にはヘッドコーチの岸野靖之が昇格すると見られた)、現場中心主義の松本の意向を尊重して続投となった。
2006年は初のシーズン勝ち越しや4連勝など、クラブ史上最高の成績を残し、残り4試合までJ1昇格の可能性を残していた。この年限りで監督は勇退し、2007年からはゼネラルマネージャーに就任することが発表された。後任監督は大方の予想通り岸野である。
[編集] トピックス
- 座右の銘は「全力に悔いなし」。
- 2006年7月20日現在、Jリーグ最年長監督である(2006年シーズン当初はイビチャ・オシム(千葉)に続く2番目、日本人では最高齢であったが、オシムの日本代表監督への転身に伴い最年長に昇格した)。
- サッカーへの情熱ゆえに、時として冷静な視点を失うことがある。特にテレビ解説者としては感情移入が強すぎるなどの批判があり、評価はあまり高くない。
- かつてユース監督として指導した選手も、現在ではその多くが指導者になっている(Jリーグの監督だけでも25人出ている)。鳥栖監督としての最後の試合後には「教え子と自分がベンチに横に並んで戦うのももういいだろう」との感想を述べている。
- それゆえに教え子から目標とされることも多く、例えば松本最後の対戦相手となったコンサドーレ札幌監督の柳下正明は、「今の鳥栖は育夫さんのチームとすぐ分かる。自分も『柳下がやっているチームだな』と分かってもらえるような指導者になりたい」と述べている。
- 川崎フロンターレの監督時代、西が丘競技場でのFC東京戦での相手コーナーキックの場面で「誰かに合わせてくるぞ!」という指示を大声で出したというエピソードがある。これについてはのちに、「選手のポジショニングを見て、相手が直接狙ってくるのに対応しているようにも見えたため。」と説明している。しかし通常コーナーキックは誰かに合わせるものであり、その言葉だけを聞けば全く無意味な指示に聞こえるため、両チームのサポーターの爆笑を誘った。また当の川崎の選手の中にも笑いを堪えるのに必死だったものがいるという(このエピソードが有名になった背景には、対戦相手FC東京の当時の監督大熊清の大声でのコーチングが一部観客の注目を集めつつあったことや、当時FC東京のセットプレーからの得点率が非常に低く、サポーターのセットプレーに対する期待も大きくないというシチュエーションも影響していると思われる)。
[編集] 選手経歴
[編集] 指導経歴
[編集] 役職歴
[編集] 監督成績
年度 | 所属リーグ | 試合数 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 順位 | クラブ |
1999年 | J2 | 31 | 70 | 24 | 2 | 5 | 優勝 | 川崎フロンターレ |
2004年 | 44 | 35 | 8 | 11 | 25 | 11位 | サガン鳥栖 | |
2005年 | 44 | 52 | 14 | 10 | 20 | 8位 | ||
2006年 | 48 | 79 | 22 | 13 | 13 | 4位 |
※1999年は6節から。
[編集] 著書
- 『燃えてみないか、今を!-サッカーに教えられた熱き人生』: ISBN 4827601216
- 『尽くしてみないか、全力を-サッカーがくれた熱血意識革命』: ISBN 4408610941
[編集] 外部リンク
- サガントス絆プロジェクトシリアルNo. 00020
- スポーツナビ 魅力あるチーム。それがサガン鳥栖の目指すもの 2005年04月07日
- スポーツナビ 神様が与えてくれた試練 2005年10月07日
- スポーツナビ さらなる飛躍を目指して 2005年12月28日
- 日刊スポーツ スポッ人ライト 2006年11月13日
[編集] 関連項目
サガン鳥栖 スタッフ - 2006 |
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監督 松本育夫 ヘッドコーチ 岸野靖之 コーチ 内藤就行 コーチ 中村敦 |
サガン鳥栖 - 2007 |
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1 シュナイダー潤之介 2 小井手翔太 3 加藤秀典 4 飯尾和也 5 金裕晋 6 村主博正 8 尹晶煥 10 宮原裕司 11 新居辰基 13 吉田恵 14 高橋義希 15 鐡戸裕史 16 髙地系治 20 山口貴之 21 中林洋次 23 衛藤裕 25 藤田祥史 26 長谷川豊喜 27 栫大嗣 28 廣瀬浩二 29 日高拓磨 30 蒲原達也 31 浅井俊光 32 平林輝良寛 34 山城純也 監督 岸野靖之 編集 |
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