太田城 (常陸国)
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舞鶴城址の碑 (2005年9月) | |
通称 |
舞鶴城、青龍城 |
城郭構造 |
平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
藤原通延? |
築城年 |
1109年? |
主な改修者 |
佐竹氏 |
主な城主 |
藤原氏、佐竹氏 |
廃城年 |
1602年 |
遺構 |
なし |
太田城(おおたじょう)は常陸国にあった城で、茨城県常陸太田市に位置し、JR常陸太田駅から北方へ約1.7kmの高台、現在の太田小学校に本郭が存在したとみられる。関東七名城の一つ。別名:舞鶴城、青龍城。
目次 |
[編集] 構造
本郭は現在の太田小学校一帯。 二の郭は内堀町から若宮八幡宮一帯。 三の郭は栄町の大部分で北側が搦手とよばれている。 これらの郭は明治の初期に国から町の有志に払い下げられ、土塁をくずし堀を埋めて宅地や道路が造られたが、大正末期まで土塁や郭の一部が残っていた。
[編集] 歴史
この城の起源は明らかではないが、天仁2年(1109年)に藤原通延(藤原秀郷の四世)が、下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりであるという。さらに、新羅三郎義光の孫・源昌義が後三年の役(1051年~1062年)の功により領有することになった地名をとって佐竹氏を称したのち、二代佐竹隆義は当時の太田城主藤原通盛(通延の孫)を服属させて小野台地(瑞竜中学校周辺)に移して小野崎氏を名乗らせ、自らは太田城に入った。入城の日、太田城の上空を鶴が舞いながら飛んだので「舞鶴城」と名づけたという。
[編集] 城主一覧
- 藤原通延など藤原氏
- 佐竹隆義
- 佐竹秀義
- 佐竹義重
- 佐竹長義
- 佐竹義胤
- 佐竹行義
- 佐竹貞義
- 佐竹義篤
- 佐竹義宣
- 佐竹義盛
- 佐竹義人(義憲、義仁)
- 佐竹義俊
- 佐竹義治
- 佐竹義舜
- 佐竹義篤
- 佐竹義昭
- 佐竹義重
- 佐竹義宣(久保田藩「秋田藩」の初代藩主。1600年に勃発した関ヶ原の戦い後の1602年、常陸54万石から出羽久保田18万石へ減封された。)
- 中山氏
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 常陸太田市の歴史散歩(1986年)