名誉革命
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ゲール人
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名誉革命
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名誉革命(めいよかくめい、Glorious Revolution)は、1688年から1689年にかけて、ステュアート朝のイングランド王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)を王位から追放し、ジェームズ2世の娘メアリーとその夫でオランダ統領のウィリアム3世をイングランド王位に即位させたクーデター。イングランドではほぼ無血革命だった為「名誉革命」と呼ばれるが、スコットランドやアイルランドでは無血ではなかった。清教徒革命と併せて、イギリスにおける近代市民社会の前提を整えたという観点から「イギリス革命」と呼ぶ場合もある。
目次 |
[編集] 背景
かねてよりライハウス陰謀事件や「血の審判」によってチャールズ2世と王弟ジェームズは急速に人気を失いつつあった。さらに1685年、兄のチャールズ2世の後を追って即位したジェームズ2世は、かつて清教徒革命のためフランスに亡命していた頃にカトリックに改宗しており、カトリック教徒を重用してこれに反対していたプロテスタントの大臣を次々に罷免していた。このため、ほとんどの議員がプロテスタントであり、カトリックの支配に対して敵意を持つイングランド議会と国王との間に対立が深まった。
ジェームズ2世がそれまでなかった常備軍を設置するに及んで、対立は決定的になったが、議会は王に男子後継者が無かったため、プロテスタントとして育てられ、プロテスタント国オランダの統領であるオラニエ公ウィレム3世に嫁いでいたジェームズ2世の長女メアリーが後を継ぐことを期待していた。しかし1688年、メアリー王妃が王子ジェームズを生んだことにより、ついにジェームズ2世との対決を決意し、メアリー夫妻にイングランドへの上陸を要請した。
[編集] 無血革命
当時フランスのルイ14世と戦争を始めたばかりだったウィレムは、イングランド議会の要請に同意し、オランダ軍2万を率いて1688年11月5日にイングランドのデヴォン海岸に上陸した。この事実を知ったジェームズ2世は議会に譲歩を示したが、すでに手遅れだった。
この頃、イングランド軍内部ではジェームズ2世に任命されたカトリックの士官に対する不服従が広がり、彼らはオランダ軍と戦おうとはしなかった。オランダ軍がロンドンに迫ると、ジェームズ2世の次女でやはりプロテスタントとして育てられていたアンが姉の夫であるウィレムのもとに逃亡し、ジェームズ2世が創設した常備軍の司令官ジョン・チャーチルも早々に抵抗を放棄し、戦わずしてオランダ軍に投降した。
不利を悟ったジェームズ2世は、まず王妃と王子をフランスに亡命させ、1688年12月11日自らも亡命に走ったが、ケントで捕らえられた。王が何の抵抗もせず亡命に走って捕らえられることは議会側には思いもかけない展開であったが、議会はメアリーの立場を重んじて王を処刑せず、その亡命を認めた(処刑すれば殉教者として同情が集まるという判断もあった)。
[編集] 新王の即位
議会側は当初メアリーの単独即位を望んでいたが、すでにロンドンを制圧してイングランドを軍事的に支配下においた夫のウィレムがそれを不服としたので、両者の共同統治と決まった。ここにウィレムはオランダ統領を兼ねたまま、ウィリアム3世としてイングランド王にも即位することになった。
1689年2月13日、ウィリアム3世とメアリー2世は即位すると、王位に対する議会の優位を認めた「権利の宣言」に署名し、同年「権利の章典」として発布された。権利の章典は王の専制を排除する近代的な議会制民主主義を確立する契機として、イギリス史上高く評価されている。
[編集] カトリックの抵抗
革命はイングランドではほとんど無血で成功したものの、やがてスコットランドがジェームズ2世に忠誠を誓って反乱を起こした。さらにジェームズ2世がフランスのルイ14世の支援を受け、フランス軍を率いてアイルランドに上陸すると、カトリックのアイルランド人がこれに同調した。ジェームズとその男系の子孫の復位を求める支持者をジャコバイト(ジェームズ党の意)と呼ぶ。
スコットランドとアイルランドの反乱を鎮圧させるために多くの血が流れたが、1690年7月1日にアイルランドのボインで行われた戦いでイングランド軍はジェームズ2世率いるフランス・アイルランド連合軍を破り、反乱は終息した。ジェームズ2世は再びフランスに逃れ、イングランドとスコットランドの王位はウィリアム夫妻に帰す。革命は終結したものの、ジェームズ2世は退位を良しとせず、フランスの干渉もあり、また反フランスの立場をとるウィレム3世の政策により、そのままファルツ継承戦争(大同盟戦争、1690年)に傾れ込むことになる。
[編集] 関連項目
- 名誉革命の年表
- ウィリアム3世 (イングランド王)
- 市民革命
カテゴリ: イギリス史 | イングランドの歴史 | スコットランドの歴史 | アイルランドの歴史 | 17世紀のヨーロッパ史 | 革命