ブリタンニア
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ゲール人
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ブリタンニア
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ブリタンニア (La:Britannia) は、ローマ帝国の属州のひとつ。ローマのブリタンニア支配は40年から410年まで及んだ。また属州のおかれた島(現在のグレート・ブリテン島)とその周辺の小群島をも指す。 ローマ皇帝ハドリアヌスが北部からの蛮族の侵攻を留めるために築いたハドリアヌスの長城が有名。
ユリウス・カエサルが紀元前55年と54年、連続して二回の遠征を行ったときから、ローマの勢力圏に入った。この遠征はガリアを掌握する一環として行われたものであり、恒久的な拠点を獲得するものではなかった。
40年にカリグラは再びブリタンニアへの遠征を企画した。この計画自体は実現性に乏しく、実際に効果のある遠征がなされたのは、44年のクラウディウスによる遠征であった。このときローマ軍は、カラタクスに率いられたケルト人を破り、都であるカムロドゥヌム(現在のコルチェスター)を占領した。
当時ブリタンニアの住民はケルト系であり、ローマと異なり王位の女系相続を認めていた。ローマに服属していたイケニ人の王が嫡男がなく亡くなったため、領地を没収してローマ領に編入しようとしたが、故王の妻である女王ボーディカは自分と娘が継位すると主張し61年に反乱を起こした。これをボーディカの乱と呼ぶ。ローマ支配に不満をもっていた他の部族も合流し、反乱は大規模なものとなった。 ボーディカの乱は、ブリタンニア総督スエトニウス・パウリヌス率いるローマ軍に制圧され、ブリタンニア南部は完全にローマの掌握するところとなった。
ブリタンニアには多数のローマ軍が駐在し、ブリタンニア総督は皇帝の信頼が厚い、熟練した人材が当てられることが多かった。このためブリタンニア総督を経験した皇帝は少なくない。これにはウェスパシアヌス、ペルティナクス、ゴルディアス1世が含まれる。
ハドリアヌス、アントニヌス・ピウスの二度にわたり、防衛のために壁を築くことが命令された。ブリタンニアの統治は容易でなく、属州は絶えず北部からの侵入に悩まされた。セプティミウス・セウェルスはブリタンニアと上ブリタンニアと下ブリタンニアの二州に分割した。この分割は、ほぼ1世紀に渡って反乱を防いだものの、カラウシウス(286-297)の反乱がおき、コンスタンティウス・クロルスがブリタンニアをさらに4州に分割した。
4世紀に入ると、ブリタンニアは二方面からの攻撃にさらされるようになった。西部からのアイルランド人の攻撃と、東部からのサクソン人の攻撃である。反乱が相次ぎ、ローマ人の活動は次第に低調になっていった。407年にコンスタンティウス3世がローマ皇帝を自称し、残軍を率いてブリタンニアを離れたとき、ローマの支配は終焉を迎えた。残された属州の住民たちは、いまや自分たちで防衛と自治にあたらなければならなかった。このことは410年に皇帝ホノリウスがブリタンニアに送った手紙に現れている。
ローマ人の撤退以後、ブリタンニアではゲルマン人の国家が形成されるまで、ケルト人が主体となり、アーサー王を始めとした伝承の時代を迎えることになる。
ブリタニアとも言う。
- ローマ帝国の属州(最大版図 紀元117年)
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本土: イタリア 元老院属州: アカエア | アシア | アフリカ | ガリア・ナルボネンシス | キュプルス | クレタ・キュレナイカ | シキリア | ヒスパーニア・ビエティカ | ビテュニア | ポントス | ヌミディア | マケドニア 皇帝属州: アッシュリア | アラビア | アルメニア | アルペス・コッティアエ | アルペス・ポエニナエ | アルペス・マリティマエ | カッパドキア | ガラティア | ガリア・アクィターニア | ガリア・ベルギカ | ガリア・ルグドゥネンシス | キリキア | ゲルマニア(上) | ゲルマニア(下) | コルシカ・サルディーニア | シリア | ダキア | ダルマティア | トラキア | ノリクム | パンノニア | パンピュリア | ヒスパーニア・タラコネンシス | ブリタンニア | マウリタニア | ティンジターナ | メソポタミア | モエシア | ユダヤ | ラエティア | リュキア | ルシタニア 皇帝私領: エジプト(アエギュプトゥス) - 上記は、ローマ帝国の領土が最大となった紀元117年の属州。
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