利根川水系8ダム
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利根川水系8ダム(とねがわすいけい8-)とは、利根川に建設されたダムの内、東京都を始めとする首都圏へ上水道を供給する事を目的の一つにしている多目的ダム群の総称。
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[編集] 該当するダム
全て国土交通省関東地方整備局あるいは独立行政法人水資源機構が管理している。以下のダムが包括されており、何れも群馬県(下久保ダムは一部埼玉県、渡良瀬遊水地は一部栃木県に重なっている)に建設されている。国土交通省は単に「利根川上流ダム群」と総称しているが、夏季、特に渇水が問題化してくるとニュースや天気予報においてこの呼称で貯水量が報道されるケースが多い。
- 注)表中の西暦は完成年、括弧内は管理主体を表す。
[編集] 目的
8ダムの中において最大級の規模を誇るのは矢木沢ダムであり、高さ131.0mで総貯水容量は利根川水系の全てのダムにおいて最大の204,300,000トンである。ダムの高さで言えば奈良俣ダムの158.0mが最高であり、日本のダムにおいて第4位の高さとなる。法的には藤原・相俣・薗原の3ダムは特定多目的ダム法に基づくダムであり、渡良瀬遊水地を除く残りのダムは水資源機構法に基づく多目的ダムである。何れも主務大臣は国土交通大臣である。目的は洪水調節、不特定利水を主目的とし、この他に灌漑、上水道・工業用水道の供給、発電を行う。但し、上水道目的を有するのは矢木沢・奈良俣・下久保・草木・渡良瀬遊水地の5ダムである為、8ダムが全て『首都圏の水がめ』であるという表現は厳密には正鵠を得ていない。尚、発電においては矢木沢ダムが須田貝ダム(利根川)と、藤原ダムが玉原ダム(発地川)との間で揚水発電を行っている。
2006年(平成18年)、国土交通省は「利根川上流ダム群再編事業」に乗り出している。これは『利根川水系河川整備計画』に基づくものとして、集中豪雨に対応可能な洪水調節容量の確保を図る事を目的としている。8ダムにおいて新規ダム案や烏川遊水地案等が検討されたが、ダム再開発による容量確保が妥当という結論に達した。これに基づき藤原・薗原・下久保の3ダムを対象に、ダム本体の嵩上げによる貯水容量確保を視野に入れた再開発事業が本格検討に入っている。全国的には同様の手法によるダム再開発は各地で行われており、大規模なものとしては夕張シューパロダム(夕張川)や新丸山ダム(木曽川)等がある。
[編集] 沿革
[編集] 治水事業としての計画
利根川水系でダムによる河川開発が計画されたのは1947年(昭和22年)のカスリーン台風がきっかけである。埼玉県大利根町で堤防を決壊させた利根川の濁流は、江戸川堤防沿いを南下して首都・東京へ流入し多大な被害をもたらした。首都水没という非常事態を経験した政府は、旧内務省が1939年(昭和14年)より実施していた『利根川改修増補計画』の修正を迫られた。当時全国各地で水害による重大な被害が頻発しており、混乱した日本経済が更に疲弊する事を警戒した経済安定本部は諮問機関である「治水調査会」に対し、根本的な河川改修の方策を図らせた。
検討の結果、1935年(昭和10年)より全国7河川1湖沼で進められていた『河水統制計画』をベースに、洪水調節を主目的とし利水も兼備した多目的貯水池による河川総合開発が最適とする結論を出した。1949年(昭和24年)、経済安定本部は利根川を始めとする全国主要10水系に対し『河川改訂改修計画』を発表し、多目的ダムによる治水を強力に推進しようとした。利根川においては同年『利根川改訂改修計画』が纏められ、利根川と烏川が合流する直下の八斗島(現・群馬県伊勢崎市八斗島町。因みに国土交通省による利根川本川直轄管理区域の上流端は烏川合流点である)地点において、基本高水流量(基準とする洪水流量)をカスリーン台風時の洪水流量である17,000トン/秒に抑える事とした。これを受け河川整備計画として全体の70%程度(14,000トン/秒)を堤防整備などの河川改修で対処し、残りの3,000トン/秒を上流ダム群で抑制する事とした。同時に1931年(昭和6年)から進行していた鬼怒川河水統制事業も併合し、鬼怒川上流にダムを建設して利根川下流の洪水調節も図る事とした。
これらの計画に基づき、既に複数地点で予備調査が進められていたダム計画が、正式に建設省の事業として推進される事となった。当初対象となった河川は利根川本川の他赤谷川・片品川・吾妻川・烏川・神流川・鬼怒川といった利根川水系の主要支川であり、これらの河川に計10基のダムを建設する事で利根川中流~下流域の治水を河川改修とのコンビネーションで実施した。従って当初は治水に重点が置かれていた。因みに1950年代当初に計画・建設されていたダム計画は以下の通りである。
一次 支川 (本川) |
二次 支川 |
ダム名 | 堤高 (m) |
総貯水 容量 (千m³) |
型式 | 沿革 |
---|---|---|---|---|---|---|
利根川 | - | 矢木沢ダム | 100.0 | 108,300 | アーチ | 『奥利根電源開発計画』・『東京都上水道計画』で戦前より調査。 改修計画により建設省に事業移管され、規模を大幅に拡大。 |
利根川 | - | 藤原ダム | 103.0 | 66,500 | 重力式 | 1948年(昭和23年)より調査開始。 後に堤高を9.0m低減する。 |
利根川 | - | 岩本ダム | 83.0 | 209,800 | 重力式 | 1952年(昭和27年)に計画発表。 当初は洪水時以外は貯水しない「穴あきダム」として計画。 後に大幅な変更を加え、「沼田ダム計画」になる。 |
赤谷川 | - | 相俣ダム | 67.0 | 25,000 | 重力式 | 1948年に調査が開始されたが、その後事業が群馬県に移管。 工事に着手するが左岸台地より漏水が発生。再度建設省に事業移管。 |
片品川 | - | 薗原ダム | 85.5 | 20,310 | 重力式 | 1948年調査開始。後に当初計画から堤高を9.0m低減 |
吾妻川 | - | 八ッ場ダム | 115.0 | 73,100 | 重力式 | 1952年に計画発表。だが吾妻川の酸性水問題が解決せず、一旦白紙に。 白砂川・温川のダム計画振り替え案が出るが決定に至らず。 品木ダム完成による吾妻川中和事業によって酸性水問題が解決した為、 1968年(昭和43年)に事業再開、1億トンダムに拡大。 |
烏川 | - | 湯殿山ダム | - | - | - | 群馬郡榛名町(現・高崎市)の湯殿山渓谷付近に建設が計画されていた。 しかしその後計画立ち消え。事業の詳細は不明。 |
烏川 | 神流川 | 坂原ダム | 129.0 | 130,000 | 重力式 | 当初は上流の鬼石町坂原地点(現・藤岡市)に計画。 1959年(昭和34年)に下流部の現地点に計画が変更される。 |
鬼怒川 | - | 川俣ダム | 102.0 | 31,900 | アーチ | 1938年(昭和13年)日本発送電による発電ダムとして調査開始。 その後1952年より建設省に事業移管。後に堤高は120.0mとなり 貯水容量も5千万トン増える。 最終的に3.0m堤高を下げ、現行計画となる。 |
鬼怒川 | 男鹿川 | 五十里ダム | 112.0 | 55,000 | 重力式 | 1931年(昭和6年)より事業着手。 1941年(昭和16年)からは『鬼怒川河水統制事業』として現地点より 2.5km上流の海尻地点でロックフィルダムとして建設開始するが戦争で中断。 戦後現地点に変更され海尻地点は放棄。 |
[編集] 治水から利水へ
1951年(昭和26年)には国土総合開発法の施行に伴い利根川水系は『利根特定地域総合開発計画』の指定地域となり、より強力な河川開発を行う事と成った。1950年代には前記のダム事業の内藤原ダム・相俣ダム・五十里ダムが完成していたが、これに加え日本最大の多目的ダム事業となる予定の「沼田ダム計画」、印旛沼付近から東京湾へ利根川の洪水を放流する「利根川放水路」計画、そして利根川河口堰計画が新規事業として計画された。
だがこの頃になると戦後の混乱期を脱し次第に東京都の人口が増加、又京浜工業地帯の拡充による工業生産活動の増大により急速に上水道・工業用水道の需要が拡大した。1957年(昭和32年)には多摩川に小河内ダムが完成し東京の水がめとなったがこれだけでは安定した水供給は望めず、更に埼玉県・千葉県等の郊外も人口が増加し水需要の逼迫は明白となった。これに対処すべく政府は1967年(昭和32年)に『水資源開発促進法』を施行し総合的な利水事業の整備を目的とした水資源開発公団(現・水資源機構)を設立。関東と関西の急増する水需要に対応しようとした。利根川は淀川と共に水資源開発水系に指定され、以後『利根川水系水資源開発基本計画』(フルプラン)に基づく水資源開発が公団によって手掛けられる様になった。これより利根川の河川開発は洪水調節を主眼においた治水から、安定した水供給の確保という利水に重点が置かれるようになった。
公団発足の同年矢木沢ダム・下久保ダムが建設省より公団に事業移管され、その後フルプランの改定に伴い事業が拡大。草木ダム・利根川河口堰が新たに公団に事業移管した他奈良俣ダムが計画された。1968年(昭和43年)には思川開発が事業に加わり、1974年(昭和49年)には荒川が水資源開発水系に指定されて利根川水系と一体化した水資源開発が実施された。一方建設省は従来足尾銅山の鉱毒沈殿を目的としていた渡良瀬遊水地の利水目的付加にも乗り出し、1973年(昭和48年)より「渡良瀬第一貯水池」(谷中湖)建設事業を行い1989年(平成元年)に完成させた。翌1990年(平成2年)には奈良俣ダムも完成し、現在の利根川水系8ダムが形成されるに至った。8ダムより放流される水は利根川中流の利根大堰で取水され、武蔵水路を経て東京都へ送水される。この他見沼代用水や房総導水路、霞ヶ浦用水等を通じ埼玉県・千葉県・茨城県へも供給される。ダムの水は汚染しきった隅田川の水質改善にも寄与している(詳細はダムと環境参照)。
尚、五十里ダム・川俣ダム及び1983年(昭和58年)に完成した川治ダム(鬼怒川)は東京都に水供給を行わない為、8ダムからは外れた。現在は建設中の湯西川ダム(湯西川)を含め鬼怒川上流ダム群と総称されている。
[編集] 開発にまつわる問題
この様にして利根川水系は首都圏の水需要と治水に応える為、多数のダムが建設された訳であるが、反面多くの問題を特に上流地域に与えた。藤原ダム建設の際には169戸の住居が水没する事から『首都の為に犠牲になるわけにはいかない』として5年に亘る反対運動が起こり、田子倉ダム補償事件の問題もあって事態は複雑になったが、群馬県知事の斡旋もあってようやく妥結に漕ぎ着けた経緯がある。これを皮切りに各ダムで反対運動が発生したが、老神温泉が水没する薗原ダム、川原湯温泉が水没する八ッ場ダムの建設反対運動は特に強固で、八ッ場ダムでは吾妻川酸性水問題による中断も併せて計画発表から52年を経た現在でも本体工事には着手していない。そして極めつけが沼田ダム反対運動であり、沼田市官庁街を含め市の大部分2,200世帯が水没する事から沼田市・群馬県両者が事業に反対し、1972年(昭和47年)に時の田中角栄内閣が白紙撤回するまで社会問題として国会でも議論の対象となった。利根川放水路計画も移転物件が余りに多大である事から事業は立ち消えとなった。
1990年代に入ると公共事業の見直しという新たな問題が起こり、大規模な公共事業に対する風当たりが強まった。折からバブル崩壊による地方自治体の財政悪化や人口増加が鈍化した事、工場拠点の海外流出による水需要の減少がダム事業の見直しを迫る事と成った。これを受け奈良俣ダム完成以降の新規ダム事業は大半が建設凍結・中止となった。国・公団直轄事業としては川古ダム(赤谷川)・戸倉ダム(片品川)・平川ダム(泙川)・栗原川ダム(栗原川)及び渡良瀬遊水地第二期工事(渡良瀬第二貯水池)が中止となっている。現在は八ッ場ダムと南摩ダム(南摩川)が建設されているが、何れも日本の長期化ダム事業の代表例として、ダム問題の縮図の1つとなっている。又、下流域の市民団体からは『水余りの状況で、両ダムは不要な公共事業であり税金のムダ遣い』として建設中止の訴訟や仮処分申請、監査請求が行われている。
利根川はこれら8ダムを始めとする河川整備によって、カスリーン台風以後堤防決壊を伴う大水害は地球温暖化で記録的な豪雨災害が頻発する現在においても起こっていない。又、1994年(平成6年)・2005年(平成17年)の全国的大渇水においても首都圏は深刻な渇水被害は起こらなかった。こうした事から8ダムは有効に機能しているといえる。だが、川原湯温泉を始め首都圏発展の為に犠牲となった水没地域の住民の苦難・苦労を忘れてはならない。