上田重安
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時代 | 戦国時代から江戸時代 | |||
生誕 | 永禄6年(1563年) | |||
死没 | 慶安3年5月1日(1650年5月30日) | |||
別名 | 佐太郎(幼名)。主水正(通称)。宗箇(別名) | |||
官位 | 主水正 | |||
主君 | 織田信長、丹羽長秀、丹羽長重、豊臣秀吉、浅野幸長 | |||
氏族 | 清和源氏 小笠原氏流 | |||
父母 | 父:上田重元。 | |||
妻 | 十井、とく(杉原家次 娘)浅野長政養女 | |||
子 | 上田重秀、上田重政 |
上田重安(うえだ しげやす、永禄6年(1563年) - 慶安3年5月1日(1650年5月30日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将・茶人・造園家。通称は佐太郎、剃髪後は宗箇と名乗る。茶道の上田宗箇流の流祖。武将としても活躍するが、茶人・造園家として現在も残る業績を残した。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
尾張国愛知郡星崎(愛知県名古屋市南区星崎)に丹羽長秀の家臣・上田重元の子として生まれた。10歳の時に父・重元が亡くなり、祖父に育てられた。
[編集] 丹羽家直臣
元服後は丹羽長秀の家臣として各地を転戦し、天正10年(1582年)6月の本能寺の変後の一連の騒乱では明智光秀への関与を疑われた津田信澄の首を挙げ、翌年の賤ヶ岳の戦いの後に越前国に1万石を与えられて大名となる。
[編集] 豊臣家直臣
豊臣秀吉により丹羽長重が減封された後は秀吉の家臣となり、天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)には朝鮮出兵に従軍し、武功を重ねる傍ら古田織部に茶道を学ぶ。
[編集] 隠棲時
関ケ原の合戦では西軍に属して敗戦し、領地を没収されて摂津国に隠居して剃髪。その後蜂須賀家政に請われ、その客将となり、徳島に住んだ。この間に家政の依頼で徳島城表御殿庭園を作庭している。
[編集] 浅野家直臣
その後、親族紀州藩主・浅野幸長の家臣となって1万石を与えられ、徳川家康にも許され、還俗する。和歌山で浅野家に仕えている間に和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園を作庭している。大坂の役にも徳川方として出陣し、敵方の塙直之の首級を挙げ戦功を立てる。1619年、浅野家が広島藩に移封されると重安は佐伯郡小方に1万2000石を与えられた。
その後は、茶道と造園を趣味として生涯を送り、浅野家の別邸縮景園、名古屋城二の丸庭園の作庭を担当した。
[編集] 上田重安の登場する作品
- 小説
- 『風流武辺』(津本陽)