マティリアル
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1984年4月4日 |
死没 | 1989年9月14日 |
父 | パーソロン |
母 | スイートアース |
生産 | シンボリ牧場 |
生国 | 日本(北海道門別町) |
馬主 | 和田共弘 |
調教師 | 田中和夫(美浦) |
競走成績 | 19戦4勝 |
獲得賞金 | 1億4101万5400円 |
マティリアルは日本の競走馬。第36回スプリングステークスで最後方の位置から強烈な差し脚を見せ、以後人気を博した。だが、その過剰人気が仇となり才能を発揮出来なかった悲運の馬である。
同期には、サクラスターオー(皐月賞・菊花賞)・メリーナイス(朝日杯3歳ステークス・日本ダービー)・ゴールドシチー(阪神3歳ステークス)・タマモクロス(天皇賞(春&秋)・宝塚記念)・イナリワン(天皇賞(春)・宝塚記念・有馬記念)がいる。
- 馬齢については原則旧表記(数え)とする。
目次 |
[編集] デビュー前
1984年4月4日、千葉のシンボリ牧場で生まれる。この11日後に皐月賞を制し、その後7冠馬となるシンボリルドルフと同じパーソロンの仔(しかも、母の父もシンボリルドルフと同じスピードシンボリ)であった。その均整のとれた馬体は早くから牧場で注目され、オーナーの和田共弘も大きな期待をかけた。
この馬に惚れ込んだ田中和夫調教師(現・引退)は、早速サクラの冠名で知られる全演植にオーナーになって貰うべく相談。前から『いい馬がいたら紹介してくれ』と言う話だったので上手くいくかと思ったが、牧場期待の馬故に値段の折り合いがつかず破談。それでも諦め切れない彼を見兼ね、和田は自ら馬主となり田中厩舎所属馬としてデビューする運びとなった。
2年後、デビューに際し競走名を付ける段となる。従来、和田の所有馬には牡馬なら「シンボリ」、牝馬なら「スイート」という冠名が付けられていた。しかし和田は本馬を「シンボリルドルフに匹敵する逸材」と評価し、将来の海外遠征を視野に入れ、特別に「シンボリ」の冠名を付けず「素材・逸材」を意味するマティリアルと名付けた。
[編集] デビュー後
1986年10月、東京競馬場での新馬戦でデビューしたマティリアルの手綱は、シンボリルドルフと同じく岡部幸雄が取った。マティリアルは1番人気に推され、これに応えて快勝、初勝利を飾る。続くオープン戦の府中3歳ステークスは3着に敗れたものの、年が変わって初戦の寒梅賞には勝利する。マティリアルはその好調を維持したまま、皐月賞トライアル、スプリングステークスに臨むこととなった。
[編集] スプリングステークス
本レースはマティリアルにとって初めてとなる重賞競走だったが、前年に朝日杯3歳ステークスを制しこの年のダービー馬となるメリーナイスや、阪神3歳ステークスを制したゴールドシチーらを抑えての1番人気となった。
レースはウインストーンが引っ張り、メリーナイス・ゴールドシチーが3,4番手という好位に付けていた。対するマティリアルはレースに付いていくことができず、1頭置かれた形で最後方を追走していた。馬群はその体勢のまま第4コーナーを回り、マティリアルはコースの内側に進路を取った。先団の馬はそれほど伸びず、鞍上の岡部が追い出しを始めるとマティリアルは後方からじりじりと差を詰めていったが、先頭を行く馬とはなお大きな差があり、アナウンサーは「マティリアルも来ているがちょっと届きそうもない」と実況した。しかしマティリアルは残り100m付近から猛然とした末脚を見せ、脚の鈍った先行馬達を次々と交わしていくと、最後にバナレットをアタマ差とらえて1着でゴールインした。
その最後方からの鮮やかな差し脚は競馬ファンに強烈な印象を与え、手綱を取った岡部は勝利ジョッキーインタビューで「ミスターシービーしちゃった」と冗談めかして語った。(※岡部はシンボリルドルフに騎乗していた際、前年の三冠馬ミスターシービーの追い込み脚質を評して、「近代競馬では先行逃げ切りが基本。シービーはルドルフには勝てない」と発言していた)
このスプリングステークスでマティリアルの評価は大いに高まり、一躍クラシック戦線の中心と目されるようになった。
[編集] 勝てない日々
迎えたクラシック第一弾の皐月賞ではやはり1番人気に推された。所が、スプリングステークス時の好調を維持していたものの、スタート下手な追い込み馬故に最内枠(1枠1番)が仇となり、勝ったサクラスターオーから約3馬身差の3着に敗れる。その後、マティリアルは調整を兼ねシンボリ牧場に放牧(今で言う所の外厩入厩)に出された。
続く日本ダービーではサクラスターオーがレースを回避したことから、ファンの『今度こそ』という期待が高まり、再び1番人気となった。しかし、皐月賞の反動からか調子を崩した状態での出走強行、しかも調教師になりきってしまった和田オーナーのシンボリルドルフ(彼は神経が太い上に捻くれ者であったので、かえって都合が良かった)に対してやった方法が、素直なマティリアルに対しては裏目に出たのが致命傷となり、単枠指定を受けたマティリアルは24頭立ての18着(優勝・メリーナイス)と惨敗。レース後、マティリアルは再びシンボリ牧場に放牧に出された。
今回の放牧も皐月賞後と同じ事をやってた故に、秋の復帰初戦のセントライト記念では2番人気に推されながら7着、三冠レース最後の菊花賞でも13着に敗れ、その後も人気は集めるものの勝てないレースが続き、マティリアルは次第に表街道のレースから遠ざかっていく事になった。又、マティリアルの不調が直らなかった事もあり、岡部は菊花賞以降暫くマティリアルに騎乗していない。
[編集] 復活と最期
マティリアル不調が長引いた故に、半ば調教師と化していた和田オーナーから解放されたのが幸いしたのか、マティリアルは次第に本来の才能を取り戻し始める。近3走を4,4,2着として復調の気配を見せ始めたマティリアルは、1989年9月10日・京王杯オータムハンデに出走した。鞍上にはセントライト記念以来の岡部が跨った事もあり、ファンはマティリアルを1番人気に推した。
スプリングステークス以後、直線に入っても伸びない、又は追い込みを見せても届かないマティリアルのレース振りをを見てとった岡部は、このレースではスタート直後から積極的に先行し好位に取り付いた。意外なレース運びにスタンドはどよめいたが、そのまま2番手で直線に入ると末足を爆発。逃げるアドバンスモアをクビ差捕らえ、マティリアルは2年6ヶ月振りの勝利を挙げた。ゴールの瞬間、滅多にガッツポーズをしない岡部が小さなガッツポーズを見せた。しかし直後に岡部はマティリアルから下馬し、マティリアルは馬運車に収容された。このアクシデント以降、岡部は入線後のガッツポーズを長らく封印する事となった。
翌日、関係者からマティリアルが右前第一指節種子骨を複雑骨折していたことが発表された。通常なら即座に安楽死の措置が取られる予後不良クラスの重傷であったが、和田オーナーの意向から安楽死は見送られ、手術が行われる事となった。手術は無事成功し、マティリアルは引退して種牡馬となることが決まった。しかし3日後、マティリアルが術後の痛みに耐えかねて馬房内で暴れ、ストレス性の大腸炎を発症する。大腸炎もまた馬にとっては致命的な病であることから、関係者は延命を断念。9月14日、安楽死の措置がとられた。
スプリングステークスにおける強烈な差し脚と復活劇、そしてその悲劇的な最期は競馬ファンに深い印象を残し、戦績としては重賞を2勝しただけの馬であるにも関わらず、多くの書籍などで取り上げられている。
[編集] 戦績
1986年 2戦1勝
1987年 6戦2勝
- スプリングステークス(G2)
- 3着-皐月賞(G1)
1988年 7戦0勝
- 2着-エプソムカップ(G3)
1989年 4戦1勝
- 京王杯オータムハンデ(G3)
- 2着-関屋記念(G3)