ボリス・サヴィンコフ
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ボリス・ヴィクトロヴィチ・サヴィンコフ(ボリース・ヴィークトロヴィチ・サーヴィンコフ;ロシア語:Борис Викторович Савинковバリース・ヴィークタラヴィチュ・サーヴィンカフ;ラテン文字転写の例:Boris Viktorovich Savinkov、1879年1月19日 - 1925年5月7日)は、ロシアの革命家、政治家、作家(英語版ではテロリスト)。 社会革命党(エスエル)の武装部門である社会革命党戦闘団の指導者のひとりで帝政ロシア要人の暗殺に関与した。革命運動のかたわら、小説家としても活躍し、B.ロープシンの筆名で革命家達の内面を書いた種々の作品を残した。ロシア革命(二月革命)後成立した臨時政府で陸軍次官。ボリシェヴィキの権力掌握後は、反ボリシェヴィキ運動の闘士として最後まで戦った。
目次 |
[編集] 生い立ち、青年期
1879年1月19日ロシア帝国領であったウクライナのハリコフに貴族の子息として生まれる。父ヴィクトルはポーランド王国の首都ワルシャワで裁判官をした人物。母は有名な作家であった。1897年サンクト・ペテルブルク大学法学部に入学するが、学生暴動に参加したため、1899年退学処分となる。その後、ドイツに渡り、ベルリン、ハイデルベルクで学ぶ。1898年以降、マルクス主義に熱中し、さまざまな組織に参加した。1900年にはヴィクトル・チェルノフ(のちに臨時政府農相)らと面識を持つようになり、以前に批判していた「人民の意志」派(「人民の意志」党)のテロリズムに傾倒することとなる。1901年ロシア国内でロシア社会民主労働党の系列団体に参加したが、当局によって逮捕される。逮捕後、ヴォログダに流刑となる。同地に流刑中のニコライ・ベルジャーエフ、アナトリー・ルナチャルスキー(のちソビエト政権初代教育人民委員)らと知り合い知識を得た。しかし、サヴィンコフは次第にマルクス主義で失望するようになり、同様に流刑となっていた女性革命家のブレシコ・ブレシコフスカヤから強い影響を受け、社会革命党の立場(すなわちテロリズム)に転向する。1903年外国逃亡に成功し、正式に社会革命党に入党。また、エスエル代表であったグリゴリー・ゲルシューニ逮捕後、社会革命党戦闘団に参加し、戦闘業務を掌握するエヴノ・アゼフの下で代理となった。
[編集] 社会革命党
1905年ジュネーブに渡る。この時期、エスエル党中央委員に選出される。また、ゲオルギー・ガポン神父と知り合う。サヴィンコフは戦闘団が使用する拳銃を購入し、ベルギー人と偽る旅券を入手してロシアに帰国した。第一次ロシア革命後、ニコライ2世は十月詔書(十月宣言)を発布し、反政府勢力に譲歩していたが、これに対して、エスエルは党中央委員会拡大会議を開催し戦術問題の討議に入る。党内世論は、テロの終結を支持するが、サヴィンコフはこれに抗してテロ戦術の継続を主張した。
1905年から1906年にかけてエスエル第一回党大会が開催されると、戦闘団代表として党大会に参加し、党を社会主義思想の普及に従事する部門とテロを担当する組織に分党することを主張した。党大会後、アゼフとともに戦闘団再建に着手するが、内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェ、モスクワ総督セルゲイ大公の暗殺事件後、セバストポリで逮捕される。裁判直前に逃亡に成功、欠席裁判のまま、死刑判決を受ける。
1908年アゼフがスパイであることが発覚。サヴィンコフは戦闘団の指導者となり、首相として革命派に対する徹底的な弾圧で知られたストルイピンの暗殺やテロ遊撃隊の結成を計画するが、これは成功しなかった。第二回党大会で戦闘団代表を辞任し、その後、パリに移る。以後もニコライ2世の暗殺計画を準備するが未遂に終わった。
[編集] ロシア革命
1914年第一次世界大戦が勃発すると、義勇兵としてフランス軍に志願した。大戦中、サヴィンコフは愛国主義の立場をとるようになり、1917年二月革命でニコライ2世が退位し、ロマノフ王朝が崩壊、臨時政府が樹立された報に接し、大きな喜びを得た。同年4月チェルノフらとともにロシアに帰国して、第8軍、南西戦線コミッサールとして臨時政府に参加。同年7月陸海軍大臣アレクサンドル・ケレンスキーの下で陸軍次官に就任した。その後、ケレンスキーが首相に就任すると、ラヴル・コルニーロフ将軍を最高総司令官にするように要請している。同年9月コルニーロフ将軍が反乱を起こすが、サヴィンコフは関与が取りざたされた。サヴィンコフは反乱事件直後、ペトログラード臨時総督に就任するが、結局、臨時政府の一切の役職から解任され、エスエルを除名された。
1917年10月レーニン率いるボリシェヴィキが武装蜂起して十月革命が起こる。サヴィンコフは、冬宮の包囲網を突破を試みた。その後、プスコフに逃れたケレンスキーと合流しペトログラード奪還を試みたが失敗に終わった。12月末に「自由・祖国擁護同盟」を結成しモスクワに潜伏しながら、ソビエト政権打倒を進める。サヴィンコフは、レーニンとトロツキーの暗殺計画やヤロスラヴリ、リビンスク、ムルマンスクでの武装蜂起を企てたが失敗した。
国内戦が勃発すると白衛軍に一平卒として入隊する。次いでフランスに戻り、そこで、彼はロシアの亡命者協会の役職に就くとともに、アレクサンドル・コルチャーク(コルチャック)提督の外交使節団長として、ヨーロッパ各国に派遣され、コルチャーク軍に対する西欧各国の援助を要請した。第一次世界大戦が終結し、パリ講和会議が開催されると、サヴィンコフは、ジョルジュ・クレマンソー仏首相、ロイド・ジョージ英首相などと会談を持っている。
1920年ポーランド・ソビエト戦争が勃発すると、サヴィンコフは赤軍を撃退すべく、ポーランドへ赴いた。ポーランドでは、赤軍の捕虜を中心に歩兵連隊と騎兵隊部隊を編成した。また、政治的な反共活動も展開し、ワルシャワで「自由のために」紙を創刊してソビエト政権を攻撃した。1921年ポーランドとソビエト政権は講和条約を結んだため、ポーランド当局によって国外退去処分となった。
パリに戻ったサヴィンコフは、亡命先で反ソビエト活動を継続した。パリではイギリス軍情報部とともに反革命運動に熱中したが、1924年8月ソビエト政府の陰謀によってソ連領内におびき寄せられミンスクで逮捕された。8月末に裁判で死刑判決を受けたが、裁判中にソビエト政権の承認を表明し、禁固10年に減刑された。サヴィンコフはモスクワのルビヤンカ刑務所に収監された。
1925年5月7日自殺した。46歳。ソビエト政権の公式見解によれば、5階の捜査官執務室の窓から投身自殺したと発表された。しかし、その自殺は極めて疑わしく、階段からわざと転落させられたとも言われるし、アレクサンドル・ソルジェニーツィンによれば、サヴィンコフはヘロイン中毒にされたとも言われる。
[編集] 文学
サヴィンコフは、B.ロープシン V.Ropshinの筆名でいくつかの小説を執筆した。1909年「ロシア思想」誌に発表された「蒼ざめた馬」は、社会革命党戦闘団の空虚な内面を描いてセンセーションを巻き起こした。その後も1912年「存在しなかったこと(邦題、夢幻の人びと)}、1923年「黒馬を見たり」、1926年「一テロリストの回想(邦題、テロリスト群像)」など、自身を含めた革命家の行動と内面を鋭く描写した作品を発表した。
[編集] 作品
- "Воспоминания террориста" (1909年)
- 蒼ざめた馬 "Конь бледный" (1909年)
- "То, чего не было" (1912年)
- повесть "Конь вороной" (1923年)
- アゼーフ ロマン・グーリ作(1959年)サヴィンコフを主人公にアゼーフとの対決にいたるドラマを描いた小説。
[編集] 映像作品
(2004年、カレン・シャフナザーロフ Karen Shakhnazarov監督、サヴィンコフの原作を下敷きにしている)