ピョートル・ストルイピン
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ピョートル・アルカディエヴィッチ・ストルイピン(Пётр Арка́дьевич Столы́пин、Pyotr Arkad'evich Stolypin、1862年4月14日(ユリウス暦4月2日) バーデン・バーデン - 1911年9月18日(ユリウス暦9月5日) キエフ)は、帝政ロシアの政治家。1906年7月21日から暗殺される1911年9月18日までロシア皇帝ニコライ2世の下で、大臣会議議長(首相)を務めた。ストルイピンは、ニコライ2世の治世においてセルゲイ・ヴィッテと並び、有能さを発揮した豪腕政治家で、特に革命派に対する容赦ない弾圧と農業分野を中心に、地方自治の近代化、司法、中央行政機構に渡る広範な改革を実行したことで知られる。
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[編集] 生い立ち
1862年4月14日(ユリウス暦4月2日)ロシアの名門貴族の家に生まれる。詩人のミハイル・レールモントフは、父側の親族に当たる。サンクトペテルブルク大学自然科学部(物理・数学部)を卒業。
[編集] 官僚、政治家時代
1884年からロシア帝国内務省に入省し、官僚としての勤務を開始した。1902年グロドノ県知事、1903年サラトフ県知事を歴任する。卓越した行政手腕と、サラトフ県知事時代の革命運動の弾圧ぶりが帝国政府から注目される。1906年3月イワン・ゴレムイキン首相の下で内務大臣となる。内相としては、第一国会(ドゥーマ)における国会運営に辣腕を振るう。
[編集] ストルイピンのネクタイ
1906年7月21日ゴレムイキンの後任として首相に就任する。翌7月22日(ユリウス暦7月9日)一部の反対派を取り込むことで土地改革にめどをつけたのを機会に第一国会を解散する。ストルイピンが首相に就任した時期のロシア帝国は、増大する社会不安の中で、国民の中に革命思想が澎湃とする中、テロリズムも横行し、ロシア全土では多くの政治家、官僚、官憲らが暗殺され帝政は危機的な状況を呈していた。1907年第二国会(ドゥーマ)選挙が実施され、ロシア社会民主労働党、エスエル(社会革命党)及びトルドヴィキなどの左派政党が躍進し、国会は、革命派色が濃厚となった。ストルイピンは、第一国会と全面衝突してゴレムイキン内閣が崩壊した轍を踏むことを恐れ、6月3日社会民主労働党の国会議員を逮捕し、国会を解散に追い込んだ。同時に選挙法改正案を提出し、第一次ロシア革命を終焉させた(いわゆる「6.3クーデター」。これによる体制を「6.3体制」と呼ぶ)。ストルイピンは、革命運動の弾圧に当たって、戒厳令を施行し、裁判の迅速を図って軍事法廷を導入した。死刑宣告を受けた被告は即日処刑された。こうして多数の人々が絞首刑に処せられ、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と皮肉を込めて呼ばれた。
[編集] ストルイピン改革
ストルイピンは、「まずは平静を、しかる後改革を」基本方針とし、上述のような抑圧政策を取った。国民の不満を解決するために、ストルイピンは、抜本的な改革に取り組むことになる。ストルイピン改革は、あくまでツァーリズムの体制内改革と銘打たれていたが、農業改革を主軸に、言論・出版・結社・集会の自由の拡大、ゼムストヴォの権限強化や、地方裁判所改革、県など地方自治体の再編を含む地方自治の近代化、中央政府の行政機構改革、都市労働者の生活改善、宗教改革、ユダヤ人の権利拡大まで極めて広範囲に渡った。ストルイピンは、これらの改革案をすでに、サラトフ県知事時代から構想していたが、内閣を組織するに当たり、革命の危機を回避し、国民の不満を解決するために推進されることになる。
ストルイピンは、政府主導による立法をより、加速化させることを試み、国会(ドゥーマ)の制度に変更を加えた。1907年6月に第2国会(ドゥーマ)を解散した後に、選挙法を改正した。この結果、第3国会は保守色を強めた。
ストルイピンは、農民が農村共同体(ミール)からの自由な脱退や、個人的な土地所有権の確認、フートルKhutorとオートルプOtrupという個人農の創設などの重要な農業改革を導入した。特に個人農の創設(すなわち農奴解放)は、これによりクラーク (富農)が誕生し、富農が階層として体制を支持することを期待してのことであった。しかし、ストルイピンの考えに反して、共同体(ミール)解体を嫌悪する農民を中心に多く国民から反対を生じせしめ、国会(ドゥーマ)やニコライ2世の支持をも失う結果に陥った。
1911年9月14日(ユリウス暦9月1日)ニコライ2世の行幸でキエフで観劇中にアナーキストで警察のスパイであったドミトリー・ポグロフによって皇帝の御前で銃撃された。4日後の9月18日(ユリウス暦9月5日)死去した。
ストルイピンの死によって、ストルイピン改革は、頓挫し、第一次世界大戦、ロシア十月革命および内戦の混乱から結果として成果を残すことなく、挫折した。
[編集] 評価
ストルイピンに対する評価は、非常に分かれる。1905年のロシア第一革命直後の緊迫した情勢から、ストルイピンは、抑圧的にならざるを得なかった。一方で、ストルイピンの構想による農業改革は農民に対する融資制度導入や、カザフスタンや南シベリアの処女地に対する魅惑的な移住などを包含し、成功する可能性も高かった。レーニンは、改革の成功により、ロシアにおける暴力革命の回避にストルイピンが成功するかもしれないと危惧していた。また、ドイツの政治指導者の多くが、改革によりロシア経済が成長し、ドイツのヨーロッパにおける優位を弱めるのではないかと憂慮した。歴史家の中には、1914年の第一次世界大戦におけるドイツの対露宣戦は、ロシアが強固になる以前にドイツ指導部が決定したと主張する者もいる。一方では、ニコライ2世は、皇帝のみが専制者であるという信念から、ストルイピンに対して無条件の支持及び援助を与えなかった。実際、ストルイピンが1911年に暗殺者の犠牲になる以前に、宮廷での基盤は既にひどく弱体化していたと示唆する専門家もいる。ソ連崩壊後、歴史の見直しによってストルイピン及びストルイピン改革に関しては、再検証が成されている。現在、ロシアにおいては、ストルイピンは、帝政最後の改革者として全般的に高い評価を受けている。
[編集] 関連項目
- ストルイピン改革 Stolypin reform
[編集] 外部リンク
- Сайт, посвященный П. А. Столыпину. Материалы предоставлены Саратовским культурным центром имени П. А. Столыпина
- Энциклопедический ресурс — (Большая советская энциклопедия, Иллюстрированный энциклопедический словарь, Энциклопедический словарь «История Отечества»)
- Русский биографический словарь (интернет-версия) на основе CD-ROM «Брокгауз и Ефрон. Энциклопедический словарь. Биографии. Россия».
- ロシア帝国内務大臣
- 1904年7月-1905年2月
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- 先代:
- ピョートル・ドゥルノヴォ
- 次代:
- アレクサンドル・マカロフ
- ロシア帝国首相
- 1906年7月21日-1911年9月18日
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- 先代:
- イワン・ゴレムイキン
- 次代:
- ウラジーミル・ココツェフ