ハンス・クリスチャン・アンデルセン
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ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen [ˈhanˀs ˈkʰʁæʂd̥jan ˈɑnɐsn̩]、1805年4月2日~1875年8月4日)は、デンマークの代表的な童話作家・詩人である。男性。なお、デンマーク語読みでは、 [hɔse ˈɑnɐsn̩](H.C.Andersen; ホセ・アナスン)と呼ばれる。デンマークでは、非常にありふれた姓であるため、単にアンデルセンでは通じない。千葉県船橋市にアンデルセン公園がある(オーデンセとの姉妹都市絡みもある)。
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[編集] 人物
1805年デンマーク、フュン島の都市オーデンセで産まれる。22歳の病気の靴屋の父と数歳年上の母親の家で産まれた。彼の家は貧しく一つの部屋で全員が眠った。
アンデルセンは、両親の愛と母親の盲信によって育てられ、若い頃から想像力を発揮した。1816年に靴職人の父親が亡くなると自分の進路を決めなければ成らなくなり、学校を中退する。彼はオペラ歌手になろうとし、1819年コペンハーゲンに行った。オペラ歌手に成ることには失敗し挫折する、その後も挫折を繰り返し、デンマーク王立バレエ団のバレエ学校にも在籍していた。その後デンマーク王や政治家のコリンの助力で教育を受けさせてもらえる事になり、大学にまで行くことが出来た。
1829年にはA Journey on Foot from Holmen's Canal to the East Point of Amagerを発表している。その後、ヨーロッパを旅行し、1834年10月にはローマに行っている。 デンマークに戻ってきた1835年に最初の小説「即興詩人」を出版する。この作品は、発表当時かなりの反響を呼び、ヨーロッパ各国で翻訳出版されてアンデルセンの出世作となったが、現在は「結局はメロドラマ、安っぽいラブロマンスに過ぎない」と評価され、鴎外訳を得た日本以外で顧みる者はほとんどいない。同年「童話集」を発表する。
その後も死ぬまでの間に多くのおとぎ話を発表しつづけた。
グリム兄弟の様に民俗説話からの影響は少なく、創作童話が多い。
なお、コペンハーゲンには人魚姫の像とダンス博物館に王立バレエ団時代の資料が、彼の生まれ故郷オーデンセにはアンデルセンの子供時代の家(一般公開)とアンデルセン博物館がある。
大学を卒業できなかった彼は、旅を自分の学校として、多くの旅行記を書き残した。また、グリム兄弟、バルザック、ディケンズ、ヴィクトル・ユーゴーなど旅先で多くの作家や学者と交友を深めた。
[編集] 彼にまつわるエピソード
彼が70歳で亡くなった時は、デンマークの皇太子や各国の大使や子供からお年寄り、浮浪者に至るまで葬式に並ぶ騒ぎになるくらい世界中の人々に愛されていたにもかかわらず、彼の恋は常に失恋の連続だった。その要因の一つとして彼にラブレター代わりに自分の生い立ちから、童話作家としてデビューした事、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を送るという変な癖があったことを指摘する人もいる。この伝記は死後50年経った跡に発見された。それによれば、彼はこの伝記を、生涯に三度記したことが分かっている。
また、極度の心配性であったらしく、眠っている間に死んだと勘違いされて、埋葬されてしまった男の噂話を聞いて以来、眠るときは枕元に「死んでません」という書置きを残していた(この話はトリビアの泉でも紹介された) 。
[編集] 代表作品
- 即興詩人
- 絵のない絵本
- 裸の王様
- みにくいアヒルの子
- 人魚姫
- 親指姫
- マッチ売りの少女
- 雪の女王
- 野の白鳥(白鳥の王子)
- しっかり者のスズの兵隊
- 赤い靴
- 小夜啼鳥(サヨナキドリ)
- モミの木
- エンドウ豆の上に寝たお姫さま
[編集] 関連項目
- アンデルセン物語
- アンデルセン公園
- 久留島武彦:1874年生れの日本の児童文学者。1924年、ボーイスカウト世界大会がデンマークで開かれた際の日本の団長を勤めたが、その際に訪れたオーデンセで、アンデルセン博物館が物置同然だったり、彼の墓が手入れもされず荒れ放題だったことに心を痛め、地元新聞をはじめ、行く先々でアンデルセンの復権を訴えた。これに心動かされたデンマークの人々は彼を「日本のアンデルセン (Hans Christian Andersen)」と呼ぶようになった。