ソルジェニーツィンの個人史
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現代ロシアが生んだ最も偉大な作家かつ90年代ロシア再生の国外からの提言者であったアレクサンドル・ソルジェニーツィンの個人史。
目次 |
[編集] 個人史を貫く価値観
ソルジェニーツィンの波乱万丈の個人史は、彼の人生を左右したふたつの価値観、つまり1)父譲りの ロシアへの愛国心(Love for Russia)、2) 母譲りのキリストの信仰心(Faith in Christ)に彩られている。愛国者として彼は、大祖国戦争に従軍し、国外追放の身であってもロシアの再生を提言した。信仰者としての彼は、ロシアが愛国心の方向を誤った時、断固、神の基準に立って幾多の人生の試練に神の信仰によって立ち向かった。彼は、ノーベル文学賞よりも、宗教界のノーベル賞、テンプルトン賞が嬉しかった。また、ソ連市民権が回復すると、彼は喜んでロシアに帰還した。宗教観が希薄で愛国心も失った現代日本人には奇異に移るかもしれないが、彼の人生から二つの価値観の視点を除くと、無駄に苦労した人間としか見えないのである。
[編集] 生い立ちと大祖国戦争
- 1918年12月11日、北カフカスのキルボックの農民の家に生まれた。同年夏、1914年の戦いに義勇兵として参加していた父はドイツ戦線で砲兵士官として戦死。敬虔なクリスチャンの祖父母と母のもとで成長した。幼年時代にロストフ・ナ・ドヌーに移り、母はタイピスト兼速記者として働く。
- 1936年、中学校卒業。文学を学びたかったが地元には適当な大学がなかったし、つましい家計もありロストフ大学の物理・数学科に学んだ。数学が得意だった。1939年から1941年の間、モスクワの歴史・哲学・文学大学の通信教育で文学を専攻した。また、後のモスクワ演劇界の大御所ザワツキーのもとで俳優修行を始めたが、発声の問題で断念した。後年収容所の中で俳優を志願したが、それも実現しなかった。大祖国戦争開戦の数日前、ロストフ大学を卒業した。
- 1941年6月、大祖国戦争開戦と共に召集。最初は輜重隊(しちょうたい)に編入されたが、数学のおかげで砲兵学校に転属。
- 1942年10月、偵察砲兵中隊長に任命され、逮捕まで第一線に留まり任務を遂行した。
[編集] 告発、収容所と流刑の11年半
- 1945年2月、前線からの小学校時代の友人への手紙の中で暗にスターリン批判をしたため告発を受け、同年7月東プロイセンのケーニヒスベルクでの欠席裁判で懲役8年を宣告される。はじめ強制労働収容所に収容された。
- 1946年、囚人数学者として内務省国家保安局特殊研究所で4年間過ごす。数学が身を助けた。
- 1950年、カザフスタンのエキバストゥーズに新設された政治犯専用の特別収容所において雑役工、石工、鋳工として3年間を送る。腫瘍ができ手術したが完治せず。
- 1953年3月、8年の刑期を終え1ヶ月が経ったとき、釈放されずに南カザフスタンへの永久流刑が決定。当時は普通だった。以後、1956年6月まで流刑の身だった。
- 1953年末、癌で死線を彷徨うが、翌年タシケントの癌病棟に送られ治療。
[編集] 釈放、雪解け、処女作発表の8年
- 1953年3月15日、フルシチョフ政権が宥和政策を打ち出す。
- 1956年7月、流刑から釈放。
- 1957年、第20回共産党大会の秘密会議、フルシチョフのスターリン批判。いわゆる「雪解け」時代に入る。国内の非スターリン化の推進、粛清の犠牲者の名誉回復、言論他の取締り緩和により国内外の空気が一変。
- 1958年、「名誉回復」リャザン在住、中学校の物理・数学の教師。秘密裏に文筆活動を開始。
- 1961年、第22回共産党大会でトワルドフスキーの演説のあと、処女作の発表に踏み切った。
- 1962年、フルシチョフ首相と文芸誌ノーブイ・ミール編集長トワルドフスキーの尽力で処女作『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表。スターリン時代の収容所の一日を描いた小説は世界的ベストセラーとなった。
[編集] 停滞の時代:検閲、逮捕と国家反逆罪による国外追放
- 1964年10月15日、フルシチョフ失脚。ソ連における文化的雪解けは大きく後退し、「停滞の時代」と呼ばれたブレジネフの暗い時代がはじまった。
- 1966年1月、短編『胴巻のザハール』を「新世界」誌に発表したのを最後にソ連文学界から完全に締め出される。
- 1967年5月、第4回作家同盟大会へ公開状を送付し、ソ連当局の検閲の廃止を公然と訴えた。当局は公開状を黙殺。以来、彼はことあるごとに公開状を発表して当局と激しく対立した。
- 1968年、国内で発表できなかった長編『癌病棟』、『煉獄の中で』等を海外で発表した。前者はタシケントの癌病棟の死に直面した人々を、後者は囚人研究所での自身の体験を綴った秀作である。
- 1969年10月、反ソ的イデオロギー活動のゆえ作家同盟除名。
- 1970年、ノーベル文学賞受賞。だが、海外に出てソ連市民権を剥奪されることを恐れ、ヘルシンキでの授与式は欠席した。ソ連では一行のニュースにもならず。
- 1973年3月、ロシア正教会のピーメン総主教に公開状を送る。無神論者に支配された正教会の体質を批判。
- 1973年8月中旬 「ル・モンド」紙「AP通信」記者のインタビューで「私が急死したと聞いたら、国家保安委員会の仕業だ」とショッキングな発言。
- 1973年9月5日、『クレムリンへの手紙』で祖国の運命について全面的に論じたが、反響は梨のつぶてに終わった。
- 1973年9月6日、記者会見で国家保安委員会に『収容所群島』の草稿が押収され、尋問されていたヴォロニャンスカ女史が釈放後首吊り自殺を遂げた旨を発表。この時点で西側への発表が決まる。
- 1973年暮 パリでソ連70年の国家的テロの歴史を明らかにした『収容所群島』第1巻を出版したため、ソ連当局から激しい批難を浴びた。『収容所群島』全3巻(1973-1975年)は十月革命後60年に及ぶ人民へのテロの歴史を描いたドキュメンタリーであり、分量的にもトルストイの『戦争と平和』に勝る大作である。
- 1974年1月14日、「プラウダ」紙上に「裏切りへの道」と題するソルジェニーツィン批判の論文発表。ソ連のマスコミは一斉に非難攻撃開始。
- 1974年2月8日、ソ連検事局の出頭命令を拒否。
- 1974年2月11日、「いかなる刑事裁判であろうとも、ロシア文学に対しても、そのただ一冊の書物に対しても、いかなるロシアの作家に対しても、権限を持たぬことを、あらかじめ声明する・・・・」とソ連当局を糾弾し、再度の出頭命令も拒否。
- 1974年2月12日、モスクワで逮捕。国家公安委員会に。レフォルトヴォ監獄に拘留。
- 1974年2月13日、ソ連刑法第64条「国家反逆罪」でソ連市民権を剥奪後、8名の国家公安委員会職員の護送で行き先も告げられず飛行機に乗せられ、西ドイツフランクフルトに国外追放された。これは1929年のレフ・トロツキー以来であった。その後スイスのチューリッヒに住む。
- 1976年9月、米国バーモント州キャベンディッシュに移住する。
[編集] 『甦れ、わがロシアよ』、国外からの提言
- 1985年3月11日、ゴルバチョフ政権、ブレジネフ政権以来の内外政策の行き詰まりと社会的停滞からの脱却を目指す路線を打ち出す。レーニン主義のリバイバル路線。
- 1988年夏頃 ソ連の一部マスコミ、近い将来彼の作品を発表と伝える。
- 1989年、イーブイ・ミール誌第1号に『収容所群島』の一部掲載予定だったが、上層部の命令で突如中止に。
- 1989年7月、ソ連当局、『収容所群島』の全面解禁に踏み切る決定。抜粋がミール誌に連載予定に。
- 1990年8月、ソルジェニーツィン市民権回復の大統領令。
- 1982年9月、密かに来日。1ヵ月にわたり日本各地を旅行。その後台湾を訪問し帰米。
- 1983年5月、宗教界のノーベル賞と言われるテンプルトン賞を受賞。ロンドンでの授賞式参加。「現代の悲劇の原因はすべて我々が神を忘れたことにある」とキリスト者の立場で現代文明を鋭く批判した。
- 1990年9月、『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を18日付「コムソモリスカヤ・プラウダ」(共産青年同盟機関紙)2,200万部と19日付「文学新聞」450万部の付録として発表され、合計2,650万部という膨大な冊数となってソ連国民の白熱の議論を呼んだ。モスクワのインターファックス社によれば、国立世論センターがソ連各地で行った調査によると、38%が読んでおり、その60%が共感を示し、わずか14%が批判的だったという。
- 1990年9月25日、ソ連最高会議でゴルバチョフ大統領、『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を2回読んだと告白し、内容を絶賛した。
[編集] ロシア帰還
- 1994年5月27日、亡命先の米国からロシア連邦に帰国。プライバシー尊重の国、米国で大歓迎を受けたにせよ、母国以外では全く寛げなかった。
- 1994年、エリツィン大統領と面会。
- 1997年5月、ロシア科学アカデミーの正会員(芸術院)に選出。
- 1997年、ソルジェニーツィン文学賞(賞金2万5千ドル)を創設。
- 2000年、プーチン大統領と面会。