ジミ・ヘンドリックス
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ジミ・ヘンドリックス(James Marshall "Jimi" Hendrix, 1942年11月27日 - 1970年9月18日)はアメリカワシントン州シアトル出身で左利きの黒人ロックギタリスト、シンガー、ソングライター。通称「ジミヘン」(ただし日本のみの呼称)。死後35年以上経った現在でも、「天才ギタリスト」としてギタリストだけでなく、多くのミュージシャンに多大な影響を与え続けている、現代的ロックギターの開拓者として最重要人物の一人。右利き用のギターを逆さまにして演奏するスタイルや、ギターを歯で弾いたり、ギター自体に火を放ったり、破壊したりするパフォーマンスはあまりにも有名。
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[編集] デビュー以前
ジミの父アレン(アル)・ヘンドリックスは、黒人の父親とアメリカ先住民(いわゆるアメリカ・インディアン)の母親との間に生まれた。純粋なチェロキー族の女性だった祖母ノラ・ヘンドリックスは、幼少期のジミに先住民の昔話を教えていたという。その影響はジミの作る曲のそこかしこに見いだされる。ジミの母ルシールは10代の若さでジミを産んだが、遊び好きで家庭を顧みないところがあったといわれ、幼いジミを置いて出奔し、数年後に亡くなっている。ジミの名曲「Angel」は、亡き母ルシールが夢に現れたことから生まれたという説もある。ルシールは黒人だが、白人の血も引いていたと言われる。つまりジミは黒人、チェロキー、白人と、多くの民族の血を引いていたことになる。
ジミが生まれた当時、父親のアル・ヘンドリックスは徴兵されて第二次大戦の太平洋戦線に参加していた。母ルシールが出奔してしまったため、ジミはルシールの姉夫婦の元で育てられていたという。戦争終結後、帰国したアルがジミを引き取り、父一人、息子一人の生活が始まった。なおジミは生まれた当初、母ルシールによってジョニー・アレン・ヘンドリックスと名付けられていたが、父アルが引き取った際にジェームズ・マーシャル・ヘンドリックスと改名している(父アルの談話)。父アルと母ルシールの折り合いが悪かった影響もあり、ジミはたびたび祖母ノラの元に預けられていたという。ノラは先住民の居留区に住んでいたらしく、ジミはノラから先住民の昔話を聞かされるのと同時に、居留区で希望のない生活を送る先住民の人々の姿を目の当たりにしていた。名曲「I Don't Live Today」(今日を生きられない)はその体験から生まれたと言われている。
多くのブルースやロックのミュージシャンと同様、ジミもレコードなどを聴いて、独学でギター演奏を学んだ。父アルは庭師の仕事をしていたが、生活は貧しかったと言われている。ジミが15歳のころギターに興味を示したため、アルは当時の住まい(アパート)の家主の息子から古いアコースティックギターを5ドルで買い取り、ジミに与えたという。これがジミとギターとの最初の出会いだった。その後、シアトルの楽器店から初めてのエレクトリックギターを購入している(父アルの談話)。ジミはブルースやR&Bやロックンロールのレコードを聴いて練習する一方、テレビのアニメなどのBGMや効果音も熱心にコピーしていたという(ジミの幼なじみの談話)。
少年期のジミはアマチュア・バンドで経験を積み、全米ナンバーワンバンドの座を得たこともあったというが、17歳のときに陸軍に志願して入隊、精鋭部隊・第101空挺師団へと配属される。一緒に軍役についていた仲間の中に、後にバンド・オブ・ジプシーズを組む黒人ベーシストのビリー・コックスがおり、軍隊内のクラブで一緒に演奏することもあった。1962年7月、降下訓練中の骨折により負傷除隊(最終階級は三等軍曹)。2005年にアメリカ国内で公表された軍内部の記録によると、自慰行為と薬物、ギターにしか興味を示さない隊内部の劣等兵で、常に隊の規律を乱して問題視されていたが、ある日トイレの個室で自慰行為をしていた所を上官に目撃され、それが最後の一押しとなって除隊させられたという。伝記作家によると、ジミは早期に軍役を終えて音楽活動に移りたかったらしく、軍隊では忌み嫌われる同性愛者を装って、わざと問題を起こしていたとの説もあるようだ。
除隊後に本格的に音楽活動を始めるが、当時は無名のバックミュージシャンだった。アイク&ティナ・ターナーやアイズレー・ブラザーズなど、数々の有名ミュージシャンのバックでプレイし、全米各地へのツアーにも同行していた。一時期は、リトル・リチャードのツアーに参加しており、音が大きく衣装やアクションが派手だったことから、リチャードに「俺より目立つな!」と怒られるほどだった。
[編集] デビューから死まで
1966年7月、アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされ9月に渡英する。チャンドラーにジミの情報をもたらしたのは、キース・リチャーズ(ローリングストーンズのギタリスト)の恋人だったリンダ・キース。当時のジミは単なるバックミュージシャンを脱し、自己のバンド、ブルーフレームズを率いていたが、チャンドラーにスカウトされたのはジミ一人だけだった。チャンドラーはジミの演奏を初めて聴いた際「ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思ったが、実際にはジミ1人だけと知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」と感じたという。チャンドラーに渡英を勧められた際、ジミはイギリスで自分のようなブルース系ミュージシャンが受け入れられるか不安だったらしく、イギリスの音楽シーンについて多くの質問を投げかけた。その際、自分と同系とみなしていたイギリス人ギタリストのエリック・クラプトンの名を挙げ「会わせてくれるか?」とチャンドラーに尋ねている。チャンドラーは「君の演奏を聴いたら彼(クラプトン)の方から会いに来るよ」と答えている。
ロンドンに於いてオーディションを行い、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)と共にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成。1966年10月から活動を始める。その際、名前を「James(Jimmy)」から「Jimi」に変えた。イギリス国内でクラブ出演を重ねる一方、ポリドール系のトラックレコードからデビューシングル「Hey Joe/Stone Free」をリリース。全英4位のヒットを記録しスターの座に上る。アメリカの伝統的なブルースをベースにしながら、それまで誰も聞いたことのなかった斬新なギターサウンドや卓越した演奏技術、そして圧倒的なインプロヴィゼーション能力を披露することにより、ジミは一般の音楽ファンはもちろんプロのミュージシャン達にも大きな衝撃を与えた。渡英したばかりのジミの演奏を初めて目の当たりにしたエリック・クラプトンは「誰もジミー(Jimmy)のようにギターを弾くことはできない」という言葉を残している。ジミのステージには連日ビートルズやストーンズなどのメンバーが顔を見せ、出演するクラブには長蛇の列ができたと言われる。
「Summer of Love」と呼ばれた1967年の夏、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは米カリフォルニア州モンタレーで開催された世界初の本格的野外ロックフェスティバル、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。これはポール・マッカートニー(ビートルズ)が「ジミを出さないフェスティバルなどありえない」と熱心に推挙したため。ジミはモンタレーで、聴衆を圧倒する演奏と、ギター燃やしのパフォーマンスを炸裂させ、母国アメリカでも一気にスターダムにのし上がった。イギリスでデビューしたジミだが、母国で成功を収めた後はアメリカを本拠として活動するようになる。全米をくまなくツアーする過密スケジュールの合間にスタジオでのレコーディングも続け、1968年にはロック史上屈指の名アルバム「エレクトリック・レディランド」をリリースした。
ジミがスターになった理由は純粋に演奏技術が高かったからだけではなく、ギターを歯で弾いたり、ギターをあたかも男性器であるかのごとく扱ったりといった、ワイルドかつセクシーなステージアクションによる部分も多かった。演奏のクライマックスでギターを破壊した上、さらに火を放つなど、常軌を逸したようなショーマンシップも発揮していた。デビュー当時のトレードマークだったミリタリールックや、東洋風のキモノ、強くパーマを当てた髪(エレクトリックヘア)、頭や脚に巻いたカラフルなスカーフなど、ファッション面でも話題の的だった。白人が持つ「黒人は性的にパワフル」という潜在イメージもあって、アメリカでは「ブラック・エルヴィス」(黒人のエルヴィス・プレスリー)、「ワイルドマン」といった異名も生まれ、センセーショナルな扱いを受けることが多かった。しかし生身のジミはシャイで礼儀正しい人物だったという証言も多い。
また黒人でありながら白人向けのロックスターとして売り出されたのも異例なことだった。白人の若者達にとって神のごときアイドルとなった一方、黒人の公民権運動が隆盛を見せていたアメリカでは、同じ黒人達から「裏切り者」と見なされる面もあった。そのため黒人向けの音楽を主体としていたラジオ局などでは、ジミの曲は徹底的に無視された。さらには黒人運動家とそれをなだめたい白人政治家の両方が、黒人なのに白人に支持されているジミの立場を利用したがっていたとされる。ジミ自身はあまり政治的な人間ではなかったという論評が多いものの、暗殺された黒人指導者マーティン・ルーサー・キング牧師のために寄付を行ったこともある。ジミは同胞である黒人層に今ひとつ受け入れられないことに悩んでいたとされるが、マネージメント側はジミをあくまでも白人向けロックスターとして売っていく方針だったようだ。
ノエルが音楽上の意見の相違等で脱退したため、エクスペリエンスとしての活動は1969年6月までである。ノエル脱退後、ジミはミッチと、軍隊時代からの友人ビリー・コックス(ベース)と共にジプシー・サンズ&レインボウズとして活動を開始。エクスペリエンスがトリオ編成だったのに対し、コンガなどのパーカションやサイドギターも加え、ビッグバンド結成を狙っていた。1969年8月に6人編成でウッドストック・フェスティバルに出演しトリを務め、音楽史に残る名演「The Star-Spangled Banner」(星条旗、いわゆるアメリカ国歌)を演奏。フィードバックやアーミングといったエレクトリックギターの特殊奏法の限りを尽くし、爆撃機が空襲を行い民衆が泣き叫び逃げまどう様子を、音で完璧なまでに再現してみせた。これは泥沼化して先が見えないベトナム戦争と、希望のない戦争にのめり込むアメリカ合衆国への痛烈な批判であった。
ジミが目指したビッグバンド形態は、マネージメント側がそれを望まなかったことや、ジミが多人数をまとめあげるには経験不足だったこともあり長続きせず、1969年10月にはビリー・コックス(ベース)、バディ・マイルス(ドラムス)というメンバーでバンド・オブ・ジプシーズを結成する。1969年12月31日〜1970年1月1日にニューヨークのフィルモア・イーストで行われたデビューコンサートの模様はアルバム「バンド・オブ・ジプシーズ」等で聞くことができる。特に当時のベトナム戦争で戦う兵士たちの極限の状態をギターで完璧に再現した「Machine Gun」の演奏は神がかり的で、ヘンドリックスの最も過激な部分が露出した名演と言える。ジャズ界の帝王マイルス・デイビスは同曲を聴き「俺はこういう音楽がやりたかったんだ」と語ったと言われる。イギリス人の白人(ミッチ、ノエル)に代わり、ジミがアメリカの黒人2人と組んだ画期的なロック・ファンク・バンドだったバンド・オブ・ジプシーズだが、ジミのマネージメント側は黒人だけのグループに難色を示した。マジソン・スクエア・ガーデンでの大規模な公演が失敗に終わり(ジミが出番の前に強いドラッグを飲まされ、まともに演奏が出来なかったためと言われる)、ジミとバディの音楽面での確執もあって、バンド・オブ・ジプシーズは1970年初頭に解散と短命に終わった。
当時の多くのロックミュージシャンと同様、ジミも薬物依存の傾向があった。1969年にはカナダのトロント空港で麻薬不法所持の疑いで逮捕され、裁判の後に嫌疑不十分で無罪となっている。
バンド・オブ・ジプシーズ解散後はミッチとビリーをバックに活動を再開。アメリカやヨーロッパ、ハワイなどでコンサートを開催している。また米ニューヨークに自身のスタジオ、エレクトリック・レディ・スタジオを建設。1970年8月末にはイギリスのワイト島で開かれたフェスティバルに出演したが、その後のヨーロッパツアーではドラッグによる体調不良や、ビリーが精神不安で帰国してしまうなどのトラブルが続いた。モニカ・ダンネマンという女性と二人でロンドンのホテルに滞在中、飲酒後に睡眠薬を服用し睡眠し、1970年9月18日の未明、嘔吐物を喉に詰まらせ窒息し死亡。享年27歳。デビューからわずか4年ほどでの死だった。
「薬物中毒による死」といった中傷や「自殺したのでは」などの憶測も飛んだが、いずれも現在では否定されている。死亡する際に一緒にいたダンネマンの行動に不審な点があると指摘する声もあるが(ジミの様子がおかしいのにすぐ救急車を呼ばなかった、ジミの肺や胃から異常に多量のワインが検出された、など)、死の真相は不明なままになっている。故郷である米ワシントン州シアトルでの葬儀には、マイルス・デイビスも参列した。
数々のヒット曲を持つジミだが、ビルボード最高位は20位止まりである(ホット100)。とはいえ難解な音楽でファンが少なかったなどということはなく、むしろ当時のアメリカのロックミュージシャンの中で最も集客力のあるスターで、ウッドストックのトリを務めたのもそのため。ただし本来ジミの出演は最終日(日曜日)の夜の予定だったのに、スケジュールが押して翌日(月曜日)の朝になってしまい、40万人とも言われた観客の大半は帰途についていた。日本人でウッドストックを観た数少ない一人であるギタリスト、成毛滋も、ジミのステージを観ずに会場を離れている。
[編集] ミュージシャンとしての特徴
一般的に、ギタリストとして語られることが多いが、常に新しいサウンドを模索しており、ギターに執着しているわけではなかった。演奏者として優れているだけではなく作曲者・アレンジャー・レコーディングエンジニアとしても独特な才能を備えており、歌手としても味わい深く表現力に富んでいる。そこが、いわゆる3大ギタリスト達(エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ)との違いだろう。奇抜なファッションや派手なステージアクション、機械によるサウンドエフェクトにばかり頼っているのでは…という批判もあったが、エリック・クラプトンは「一度目をつぶって演奏に耳を傾けてみればいい。ジミがどれほど優れたミュージシャンであるか分かるはずだ」、あるいは「僕とジェフ・ベックが二人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大級の賛辞を送っている。ジェフ・ベックは「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」と語っている。ジミ自身「機械ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」と反論している。
彼のプレイスタイルについては、破天荒なアクションが取り上げられることが多いが、基本はあくまでブルースやR&Bに根差し、これにジャズのコードやスケールを加えたベーシックなものである。ただし音の選び方やフレーズの展開は強烈に非凡なもので、従来からのブルースやR&Bの枠に収まらないような画期的なものだった。 ヘンドリックスその非凡なインプロヴィゼーション能力によって、Red HouseやMachine Gunなど、アドリブが曲の大部分を占める曲で、ライブごと全く違った展開、アドリブを行った。これは、「指癖的な小さなフレーズ(リック)を沢山覚えておき、それらを組み合わせてアドリブを構築する」というアドリブのとり方ではなく、「その瞬間に頭の中で鳴ったフレーズをギターで弾く」というアドリブのとり方を行っていたからであると思われる。事実、ヘンドリックスは自分の歌声(=自分の出したいと思っている音)とギター(=実際にギターで弾く音)をユニゾンで完璧に弾くことができた。
後に登場してくるハードロック/ヘビーメタル系ギタリストに比べると、ジミのソロプレイは特に速弾きとは言えず、運指もやや正確さに欠けるところがある。そのためジミの真価を十分に理解できない音楽ファンも少なくない。しかしギターという楽器が本来備えている音に加え、大音量に付随する電気的なノイズまでも駆使し、音色を刻々と変えながら、まるで自分の手足のごとくギターを扱い、即興で感情の高まりを表現していく能力を見れば、現在もジミに並ぶロックギタリストは出現していないと言えるだろう。ライブ演奏が素晴らしかっただけではなく、スタジオ録音でも革命的と言えるような多彩なサウンドを生み出した。現代のヘビーメタル系ギタリストに比べ音数は少ないものの、緩急自在のフレージングと、多くのハードロック/ヘビーメタル系ギタリストに欠落しているタイム感のコントロール(いわゆるタメとツッコミ)により、聴き手に与えるスピード感は非常に高く、凡百のギタリストの追随を許さない。ソロイストの面が重視されることも多いが、自身の歌と絶妙に絡み合う、グルーブ感に富んだバッキングギタリストとしても非常に優れている。また、作曲面においても後にロックのスタンダードとなる数多くの名曲(特にPurple Haze,Little Wing,Voodoo Chiled(Slight Return),Red House,Fire,Foxy Ladyなどの曲は多数のミュージシャンによってカバーされている)を残した。エレクトリックギターという楽器の可能性をそれ以前とは比較にならないほど拡大しており、メジャーシーンでの活動期間は僅か4年にして、後世のギタリストに与えた影響が比類のないほど絶大であることから見ても、史上最高のロックギタリストと呼ぶにふさわしい人物である。
ジミはギターの音質を電気的に変化させる機材(いわゆるエフェクター)を多用することで知られた。スタジオ録音はもちろんステージでもエフェクターを使用し、従来のギタリストでは考えられなかったほど音質に豊富なバリエーションをもたせている。これもジミの大きな功績のひとつと言える。主に使用していたのは音を歪ませるファズ、踏み加減で音質が連続的に変化するワウペダル、音を波立たせるユニヴァイブといったものだった。ジミが存命の頃には「機械に頼っていて邪道」と評する向きもあったが、現在の目で見るとジミの機材はむしろ非常にシンプルであり、現代のギタリストの方が遙かに数多くのエフェクターを使用している。またジミはエフェクターの能力に頼るというよりも、そのエフェクターの潜在能力を見つけ出すことの方が多かったと言われる。手に入れたエフェクターの可能性を探ろうと何時間も演奏を続け、そのエフェクターの設計者ですら想定していなかった斬新な音を引き出していたとされる。エフェクターなどの電子機器設計の達人だったロジャー・メイヤーが、ジミのアドバイザーだったのも大きな意味を持っていると言われる。その結果ジミの演奏の中には、どういう方法で出したのか今もって不明な、謎のサウンドが非常に多い。これはスタジオ録音だけではなく、ライブでも同様である。なおロジャー・メイヤーが製作したペダルが現在では一般に販売されている。
ギタリストであると同時に歌手でもあるジミだが、ずっと「自分は歌が下手だ」と卑下し続けていた。そんなジミにとってのヒーローは、独特の歌唱法でフォーク/ロック界を席巻したボブ・ディラン。ディランの歌を聴いたジミは「これなら俺も歌えるかも知れない」と勇気づけられたと言われる。ジミはディランに大きな影響を受けており、ディランの曲「Like a rolling stone」や「All along the Watchtower」などをカバーしている。ジミが「All along the Watchtower」をシングルヒットさせたことを受け、ディランは「あの曲は俺が書いたが、権利の半分くらいはヘンドリックスのもの」と発言している。またディランは、ジミのアレンジに近い形で同曲を演奏したこともある。エリック・クラプトンも「ジミはギターだけではなく歌もとてもうまいよ」と述べている。
ジミは音楽の理論などに疎く楽譜もほとんど読めなかったものの、音に対する感性と表現力はまさしく天才的で、ジャズ系ミュージシャンとのセッションでも引けを取ることはなかった。帝王マイルス・デイビスやジョン・マクラフリン(ギタリスト)に才能を絶賛されていたほか、マイルス作品の編曲などで知られる巨匠ギル・エヴァンスもジミとの競演を熱望していたと言われる。ギル・エヴァンスはジミの死後、ジミの曲をアレンジしたレコード「THE GIL EVANS ORCHESTRA PLAYS THE MUSIC OF JIMI HENDRIX」を発表。1988年に亡くなるまでステージでジミの曲を演奏し続けた。エバンスいわく「ジミのレコードを聴くと毎回新しい発見がある。彼が優れた作曲家だった証拠だよ」。
[編集] 影響とエピソード
ジミは様々なジャンルのミュージシャンとセッションすることを好んだが、'60年代半ばのイギリスではそういった習慣(文化)があまり普及しておらず、イギリスでセッションの習慣を定着させたのはジミであるという説も存在する。
渡英後間もない時期のジミと最も親しかったのはブライアン・ジョーンズ(ローリングストーンズのギタリスト)だったといわれ、ジミがイギリスのミュージックシーンで人脈を築くのを助けたほか、アメリカへの逆上陸となったモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967年)ではジミを観客に紹介する役も買って出ている。この時期、ジョーンズはミック・ジャガー(ストーンズのボーカル)達と仲違いし、ストーンズ内で孤立し初めていた。ジミはジャガー達に憤っていたらしく、自身のステージにジャガーとマリアンヌ・フェイスフル(女優兼歌手、当時のジャガーの恋人)が顔を出した際に二人の間に割り込んで座り、フェイスフルに「この後、俺と付き合えよ」と聞こえよがしに発言。隣のジャガーはジミの挑発的な言葉に気づかない振りをしたため、その場で喧嘩になるようなことはなかった。
とはいえミック・ジャガーはジミへの敬慕の念を常々表明しており、ジミの死後に制作された伝記映画「Jimi Hendrix」(1973年)に登場しインタビューに答えている。'80年代末のソロ活動の際には「Red House」や「Foxy Lady」といったジミの曲をステージで披露し、大きな話題を呼んだ。
モンタレー・ポップ・フェスティバル(1967年6月)には、ジミと同様に楽器破壊パフォーマンスを売りにしていたザ・フーも出演している。主催者はジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとザ・フーを連続してステージに登場させようとしたため、両バンドは大いに困惑した。先に出演した方が、観客に与える衝撃度が確実に高いからだ。ザ・フーのギタリストのピート・タウンゼントは、ジミに「君は天才ミュージシャンだが、俺達には楽器破壊の芸しかない。俺達を先に出させてほしい」と懇願したという(タウンゼント自身の談話)。話はまとまらず、主催者側のジョン・フィリップス(ママス&パパス)がコインを投げ、その裏表で出演順を決定することになった。結果、ザ・フーが先、ジミ達は後という出演順になっている。
ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとザ・フーは宣伝担当エージェントが共通で、しばしば同じステージに立ったりしていた。イギリスではザ・フーの方が先にデビューしていたため、ジミがザ・フーの前座として出演することもあったという。ピート・タウンゼントは「ジミから『ザ・フーのみんなにはとても世話になった』と、とても丁重に礼を言われたことがある。だが本当の友人になることができないうちに、彼は死んでしまった」と残念そうに語っている。タウンゼントはジミのギターに惚れ込み、ジミの渡英後間もない時期には可能な限りステージに通い詰めていたと言われる。ジミが出演しているクラブにタウンゼントが出向いた際、出入り口でジェフ・ベックと擦れ違い「あいつ(ジミ)は俺の真似をしているんじゃないか?」と悔しそうに言われたというエピソードがある。
ジェフ・ベック・グループが初のアメリカ公演を行った際(1968年6月)、アンコールにジミが登場し、ベックと共演したことがあるという。ベックは「ステージでジミと一緒に演奏していると、自分が歴史の一ページに立ち会っているんだというような深い感慨があった」と述べている。雑誌の記者に「若手ロックギタリストに最も大きな影響を及ぼしているのはヘンドリックスとあなた」と言われたベックは「本当か!」と驚喜したという。ジミもベックのことを「イギリスで最高のギタリスト」と評したことがある。ベックは'80年代半ば、ジミの演奏で有名な「Wild Thing」(オリジナルはトロッグス)をジミ風のアレンジでレコーディングしている(珍しくベックがリードボーカルを務めた)、又ジミのトリビュートアルバムで「Manic Depression」をカバーしている。
モンタレーの記録映像で有名なギター燃やしだが、それが初めてではなく、イギリスで既に何度も行っていた。ジミが初めてギターに火を放ったのは、ウォーカーブラザーズのツアーに前座として同行した時(1967年3月)。ギター燃やしを発案したのはジミ本人ではなく、知人の記者だった。「アメリカ国家」のライブ演奏もウッドストックが初めてではない。「アメリカ国家」には多重録音を駆使したスタジオ録音バージョンも存在している。
ジャズの帝王、マイルス・デイビスは自身のバンドのギタリストに対し、「ジミ・ヘンドリックスのように弾くんだ」と常々指示していた。バンドに参加していたギタリストのジョン・マクラフリンやマイク・スターンが、いかにもジャズ的な演奏をしても決して満足せず、ロック風な演奏をすると「それだ!」と喜んだという逸話もある。
クリームの名曲「Sunshine of your love」は、クリームのメンバー3人(ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカー、エリック・クラプトン)がジミのステージを鑑賞した夜、ジミの演奏に触発されて生まれたという(ブルースとベイカーの談話)。それを知っていたかどうかは不明だが、ジミも同曲を気に入っており、たびたびステージで演奏していた。イギリスのTV番組「ルル・ショー」(生放送)にジミが出演した際、司会のルル(女優兼歌手)と「Hey Joe」をデュエットするという予定を無視し、解散したばかりのクリームに捧げるため同曲を演奏したのは有名(1969年1月)。
ジミとエリック・クラプトンはたびたびセッションを行っていたとされるが、ジミから見るとクラプトンのサイドギターの技術は芳しくなかったらしい。ジミはクラプトンに対し「おまえはギターよりベースを弾いた方がいい」と面と向かって発言し、クラプトンが怒って帰ってしまうということもあったらしい。但し、ジミはリズム・グルーヴに関して意識的なギタリストであり、リズムギターが弾けないと良いギタリストでは無いという発言や、またジミ本人はセッション時にベースを良く弾いていたという周辺ミュージシャンの証言があるため、この言葉はベースを弾いてリズム感を鍛えた方が良いという単なるアドバイスだった可能性もある。
ジミのマネージメントを行っていたマイケル・ジェフリーは1973年に飛行機事故で死去。ジミを見いだしたチャス・チャンドラーは1996年に死去。ベースのノエル・レディングは2003年に死去。ジミが亡くなる際に同室にいた女性モニカ・ダンネマンは、ジミヘンフォロワーとして知られるギタリストのウリ・ジョン・ロートと後に結婚したが、1996年に自殺している。
ジミの父アル・ヘンドリックスは、ジミが成人して家を出てから日系二世の女性アヤコと再婚。ジミは自分と同じ東洋系(ジミの父方の祖母はインディアン)の女性が義母になったことを非常に喜んでいたという。ジミは義母アヤコに「1970年のハワイのコンサートの後で日本に行く予定だよ、日本に行くのが楽しみなんだ、日本はどんなところなの」と語っていたという。ジミの言葉通り、日本でもジミのコンサートを含むフェスティバルの計画が進んでいたが、これは実現していない。結局ジミが来日することは一度もなかった。
ジミの音源の権利は、ジミが遺言を残していないこと、マネージャーのマイケル・ジェフリーが事故死したこと、ジミが各所にジャム音源を残していたことなどから混乱。ジミ自身はレコードデビュー後わずか4年ほどしか活動していないにも関わらず、正規版と海賊版を含め無数のレコード(CD)が市場に出回ることになった。しかし裁判の末、1990年代半ばにジミの遺族に権利があると確定(それ以前はジミと親交のあったミュージシャン、アラン・ダグラスが権利を持っていた)。ジミの父アル・ヘンドリックス達によりEXPERIENCE HENDRIXという会社が設立され、ジミの音源を管理することになり現在に至っている。アルは2002年に亡くなったため、娘のジェイニー・ヘンドリックスがEXPERIENCE HENDRIXの代表になっている。ただしジェイニーはアルの後妻アヤコの連れ子で、アルの実の娘ではない。つまりジェイニーとジミは、血は全くつながっていない。
無名時代のジミは様々なレコード会社やエージェントと契約を取り交わしており(多くはその場の雰囲気に流され軽い気持ちでサインしていたらしい)、生前から権利が混乱していた。特にPPXレコードというインディーズレーベルが本格的に法廷闘争を仕掛けてきたため、解決策としてジミのアルバム1枚の権利をPPX側に与えると決定。そのために制作されたのがジミの生前唯一の正規ライブアルバム「バンド・オブ・ジプシーズ」である。こうした経緯に加え、十分な制作時間を与えられなかったこともあり、ジミは同アルバムの仕上がりに満足していなかったらしい。
EXPERIENCE HENDRIXがジミの音源の権利を獲得しユニバーサルビクターから再発版や新規企画版のCDが発売される際、「オリジナル録音テープを元にリマスターした」と宣伝されたが、一説に一部のオリジナルテープはEXPERIENCE HENDRIXの手に渡っていないといわれ、部分的にはレコード等から音を起こしているのではとの噂も存在する。注意深く聞いてみると、オリジナルテープには存在しないはずの「針音」のようなものが聞き取れるかも…。
レインボーのアルバム「STRAIGHT BETWEEN THE EYES(闇からの一撃)」(1982年)のタイトルは、ジミのイメージから名付けられたという説がある。レインボーのリーダーだったリッチー・ブラックモア(ギタリスト)がミュージシャン仲間と語り合っている際、誰かが「ジミの演奏は視覚にストレートに飛び込んでくる」と発言したのを受け、その言葉をアルバムタイトルに拝借したのだという。(ジミー・ペイジの談話)
いわゆる三大ギタリストの内、エリック・クラプトンとジェフ・ベックはジミと友人だったと言われているが、ジミー・ペイジはニュー・ヤードバーズやレッド・ツェッペリン立ち上げの時期で忙しく、ジミのステージを観る機会が一度もなく会うこともできなかったという。ただしペイジがレッド・ツェッペリンのアメリカ公演の合間にニューヨークのクラブに出向いた際、偶然同じ店に来ていたジミと同じテーブルに着いたことがある。その時のジミは完全に酩酊状態で、まともに話をすることもできなかったらしい(ジミはあまり酒が強くなかったと言われている)。結局ペイジが生前のジミと会えたのはその時だけだった。(ペイジ本人の談話)
1968年のマイアミ・ポップ・フェスティバルでジミが燃やしたギターは裏方スタッフが拾って持ち帰り、のちに知人の家へ泊めてもらったさいに宿代代わりにプレゼントした。この知人というのがフランク・ザッパであり、ザッパはこれを直してしばらくステージで使用していた。インストゥルメンタル曲「Sexual Harassment in the Workplace」(アルバム『ギター』収録)などでその音色を聴くことができる。この通称ヘンドリックス・ストラトは、ザッパの死後に息子のドゥイージル・ザッパがオークションに出品し、話題になった。他のミュージシャンに対して辛辣な発言をすることが多いザッパだが、ジミのことは賞賛している。よく知られている発言としては「今のメジャーシーンでまともな音楽をやっているのはヘンドリックスとキャプテン・ビーフハートくらいだね」というものがある。その反面「彼のステージを観た際、スピーカーの真ん前にいたために気分が悪くなった。なぜあそこまで大音量にするのか理解できない」と述べている。
[編集] ディスコグラフィ
- アー・ユー・エクスペリエンスト(1967年)
- ARE YOU EXPERIENCED (Track 613 001)
- アクシス:ボールド・アズ・ラヴ(1967年)
- AXIS : BOLD AS LOVE (Track 613 003)
- スマッシュ・ヒッツ(1968年)
- SMASH HITS (Track 613 004)
- エレクトリック・レディランド(1968年)
- ELECTRIC LADYLAND (Track 613 008-009)
- バンド・オブ・ジプシーズ(1970年)
- BAND OF GYPSYS (Track 2406 002)
[編集] 左利きか右利きか
ジミは右利き用のストラトキャスターを上下逆さまにして、左で構えることで有名(つまり左利きなのに、左利き用のギターを使わなかった)。ただし弦は通常の順番に張り替えてあった(下に細い1弦、上に太い6弦)。ストラップピンも新たに付け直していた。
しかし一部に「ジミは本来は右利きではないか?」という説もある。これは、彼の父親が「ジミは左利きにあこがれがあった」「ボールを投げる時は右手だった」と証言していることや、ギターを壊すパフォーマンスの時のギターの振りかぶり方が右利きのそれである、などを根拠とする。また、左手で弾くことで、単に普通とは違った音を出したかったという説もある。
上記の説は「あの有名人は社会的イメージと異なる意外な面を持つ」という、ありがちなうわさ話の域を出ないとも言える。ジミが左手でサインを書く映像が残されており、伝記等で「ジミは左でも右でも字を書いたりギターを弾いたりできた※」との証言もある。左利きは少数派なため、右利き用の器具も器用に使える例(人)が多く、ジミもその一例だったと考えることもできる。普通に考えれば「ジミヘンは両利きに近い左利き」と説明するのが妥当だろう。
ジミは左利き用のギブソン・フライングVを所有していたが、上手く使えないからとローディーだったエリック・バレットにそのギターをプレゼントしている。右利き用ギターをひっくり返して使用しているうちに、コントロール部(ボリュームやトーンのつまみ)が上に位置していないと上手く弾けなくなっていたらしい。バレットはそのギターを後に売却。現在はハードロックカフェに展示されている。
※『All along the Watchtower』を右利きの構えで弾く映像が残されている。(なお有名なモノクロの映像にはフィルムを裏焼きしたものもあるので注意。ジミが右でストラトを弾いているのだが、ヘッドやボディの形状からそのストラトは左利き用ということになり、非常に不自然。前後の映像ではノエル・レディングが左でベースを構えている場面も登場する。普通に考えればフィルムの裏焼きだが、意図的に裏焼きしたのかどうかは不明。同様の例では、「バンド・オブ・ジプシーズ」の英版アルバムジャケットで、ジミを模した人形がギターを右で構えているのが有名。これは人形製作者の勘違いによるものと言われている)
[編集] ストラトの魔術師
現在ではロックギターの代名詞的なモデルとなっているフェンダー・ストラトキャスターだが、ジミが登場した頃には使用するミュージシャンもほとんどおらず、生産中止の噂もあった。しかしジミが使用することによってストラトキャスターの知名度が一気に上昇。特にストラトキャスターのシンクロナイズドトレモロユニットによる驚異的なサウンドマジックは、世界中のギタリストの度肝を抜いた。ストラトキャスターの設計者であるフレディ・タバレスは「ベンチャーズやザ・ビーチ・ボーイズのようなサウンドは予想していたが、ヘンドリックスのトレモロマジックは全くの想定外」と発言している。 ストラトキャスター以外ではギブソンのフライングVやSG、レスポールなどを、それ以外でも様々なメーカーのギターを使用していたことが写真などから確認できる。12弦アコースティックギターでHear My Train A Comin'を弾き語りする映像も残っている。
ジミのギターサウンドというと歪みきった大音響がイメージされる場合が多いが、名曲「Little Wing」などで知られるように、実際にはクリーンサウンドも多用している。ストラトの3つのピックアップを使い分け、ボリュームやトーンを頻繁に調整し、演奏中に音色を大きく変化させることも多かった。エリック・クラプトンが使って有名になったハーフトーン(ストラトのピックアップ切り替えスイッチを中間位置にすることで生じるフェイズサウンド)も、実際はジミのほうがずっと早く使用している(ジミが考案したのではなく昔からある裏技だったらしい)。ボディやネックを叩いて弦を共鳴させフィードバックを起こしたり、トレモロユニットのスプリングを弾いて不思議な音を出したりと、ギターから発生するあらゆる音を演奏に利用していたのも有名。
ジミの代表曲である「Purple Haze(邦題:紫の煙)」で使用されているE7(#9)というコードは、本来ジャズなどにおいて使用されていたコードであるが、ジミの同曲の演奏によって「サイケデリックな響きのするコード」として有名となり、日本では「ジミヘンコード」などの名称で呼ばれている。
ジミの存命中にストラトキャスターを使用するフォロワーはほとんどいなかったが、死後にはエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、リッチー・ブラックモアなどがストラトキャスターをトレードマークにし始め、ジミ以降数多くのロック、ブルース系のギタリストがストラトを使用したことで、「ロックギター=ストラト」と言えるほどポピュラーとなった。
クリーム時代のエリック・クラプトンが生み出した“ウーマントーン”は一般にギブソンのレスポールまたはSGによるものと思われているが、ストラトキャスターのフロントピックアップによるものという説がある。ウーマントーンの代表曲「Sunshine of your love」のレコーディングはストラトキャスターで行われたという証言も存在する。これが正しいとすれば明らかにジミの影響だろう。クラプトンはジミと同じような“エレクトリックヘア”(チリチリのアフロヘア)にしたり、東洋風のヒラヒラした衣装(キモノ)を着用したりしていた時期があり、ジミから強い影響を受けていたことが知られている。
ギターは半音下げチューニングを多用していた。これはジミの声域(音域)に合わせる目的と、チョーキングなどの奏法をしやすくする目的と、両方の意味があると見られる。スタジオレコーディングの曲の中にはレギュラーチューニングも多い。ライブ音源の中には全音下げチューニングで演奏されている曲も確認できる。
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