ジミー・ペイジ
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ジェームス・パトリック・"ジミー"・ペイジ OBE(Jimmy Page, 本名James Patrick Page OBE 1944年1月9日 - )は、イギリスのロックギタリスト、作曲家、プロデューサー。日本では「ブリティシュ・ロック3大ギタリストの一人」という冠と共に語られる事も多々ある。 当時の音楽ジャーナリズムからは「1970年代のパガニーニ」と形容され、世界で最も成功したロックバンドの一つであるレッド・ツェッペリンのリード・ギタリスト兼リーダー。レコード、ステージなど全般のプロデュースも担当した。イングランド・ロンドン出身。
ツェッペリン時代は黒魔術に傾倒していたとの噂がある(詳しくは後述)。
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[編集] 活動及びキャリア
[編集] アート・スクール、セッションマン時代
1963年頃からアートスクールとの二足の草鞋でセッション・ギタリストとして活躍、数々のレコードに参加する。当初は「クルセイダーズ」などにも参加し、パーマネントなバンドでの活動を志望していたが、体調不良から断念することになる。セッションマン時代は主に師匠格のビッグ・ジム・サリバンと行動を共にしており、ビッグ・ジムに対して「リトル・ジム」の愛称で親しまれていた。余談だが、サリバンは『レッド・ツェッペリン III』以前のペイジに対しては「ファッション・リーダーとしてのギタリスト」としての評価しかしていなかったが、「天国への階段」を聴いた際に「やっと自分の音楽を見つけたな」と心からの賛辞を送ったという。またサリバンはリッチー・ブラックモアが14歳の時に家が近所だったという縁で彼にギターのレッスンを施したという。黎明期のハードロックの人気ギタリストの双璧がビッグ・ジムの薫陶に源を成すという事実もまた興味深い。 ペイジは後にアートスクールを退学、プロのセッションギタリストを志向するようになる。以下にセッションマン時代の主な活動を記す。
- 1969年のジョー・コッカーのデビュー盤でのハイライト曲「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・マイ・フレンズ」は同年のウッド・ストック・フェスティバルでのパフォーマンスが有名だが、元のビートルズ作品を3拍子のゴスペル調にアレンジしなおしたのはジミー・ペイジであり、イントロでの印象的なディストーションの効いたダブル・チョーキングも含めて、コッカーのデビュー盤ではペイジが全編を弾いている。
- 1966年にデビューしたフランスのミッシェル・ポルナレフのレコードにも参加。
- ザ・フーの数曲(「アイ・キャント・エクスプレイン」「ボールド・ヘッディド・ウーマン」など)に参加。ただしどれもリード・ギターとしてではなく、飽くまでアシスト的役割に徹している。
この他にもキンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」のディストーションの効いたリフが彼のプレイという説もあり長らくファンの間で信じられてきたが、ペイジ自身が1970年代に「トラウザー・プレス」誌のインタヴューでこれを否定している。
当時は演者側、セッションマン側、プロデューサー側それぞれに守秘義務があり、ペイジ自身も自分のどのプレイがどこで使用されているのか知らされないことも多かったと発言している。また、プロデューサー側も保険をかける意味でセッションマンを雇うときもあり、演奏したものが一切使用されなかったことも度々あったという。一時信じられた「60年代のレコードの8割に参加している」と言う俗説は恐らくこの辺りから来ているものであろう。
ソロ・デビューは1965年。フォンタナ・レコードからシングル「シー・ジャスト・サティスファイズ/キープ・ムーヴィン」をリリース。また、この前後、エリック・クラプトンとのツインギターによる非公式セッションの様子を録音したブルースナンバーもリリースし、クラプトンの顰蹙を買っている。この件に関してペイジは、レコード会社が勝手にやったと主張しており、後のレッド・ツェッペリン発足の際まで遺恨を残すことになる。
[編集] ヤードバーズ
クラプトン脱退後のヤードバーズへの参加を要請されるもののこれを辞去し、以前からの知り合いであるジェフ・ベックを推薦する。ところがその後ベースのポール・サミュエル・スミスが脱退し、後の1966年6月にヤードバーズにベーシストとしての加入。その後ベックが扁桃腺炎で療養に入ったため、ベックの代役でギターパートへ転向。ベック快気後は彼とのツインリード・ギターのスタイルがバンドの売りとなった。その後「トレイン・ケプト・ア・ローリン(ストロール・オン)」、「幻の十年」、「アイム・コンフューズド(後の『幻惑されて(原題Dazed and confused)』)」などの名曲を残すが、後にジェフ・ベックが脱退、更にメンバーの音楽性の違いによる不仲からヤードバーズ自身も1968年に空中分解、解散状態となる。ペイジのヤードバーズ加入の直接の動機はとにかくスタジオから抜け出て、ライブ演奏をしたいということだったらしい。その熱意たるや、周囲のバンドマンたちが「もしヤードバーズがドラマーを募集していたらジミーは叩いたんじゃないかな。ベーシストでもなんでも良かったのだろう。とにかくセッションの仕事は嫌気がさしていたようだ。」と証言していたらしいことからも明らかだ。ライブバンドで演奏がしたいというのが彼の本来の動機ではあったが、結果的にペイジがヤードバーズを乗っ取った形になってしまったことは否定出来ない。
[編集] レッド・ツェッペリン結成
バンドの継続に意欲があり、また契約も残っていたペイジは新メンバーを集めヤードバーズとしての活動を続けようと試みた。まず、ベーシストにセッション・ミュージシャンとして親交のあり、技量も折り紙つきであったジョン・ポール・ジョーンズが決定するものの、その他のパートは順調には行かず、困難を極める。
当初ヴォーカリストには、スティーヴ・ウィンウッド、若しくはスティーヴ・マリオットを加入させようとしたのだが、共にすでに他のマネジメントと契約を結んでおりうまくいかず(ただこの二人のスカウトはこのレッド・ツェッペリンにではなく、それより以前に「キース・ムーン或いはジョン・エントィッスル考案のレッド・ツェッペリン」に対してなされたものであると言う指摘もある)、次にテリー・リードを起用しようとしたものの、彼もまた契約の壁から加入は叶わず、リードの推薦でロバート・プラントをヴォーカリストに決定する。ドラマーはプラントの強い勧めによりジョン・ボーナムが加入することとなった。レッド・ツェッペリンの誕生である。
当初はレコード会社との契約が残っていたので当初はニュー・ヤードバーズと名乗り活動したが、契約満了に伴って、「ヤードバーズを超えてしまった」ことから新たなバンド名として「レッド・ツェッペリン」を名乗り始める(グループ名の由来はレッド・ツェッペリンの項参照)。ただ、ヤードバーズは近年再結成を果たしており、その際「ツェッペリンの前身バンド」という扱いに対して不快感を表明している。彼らによれば、ニューヤードバーズ(ツェッペリン)とヤードバーズは全く別のバンドであり、ヤードバーズは、特にクラプトンが在籍していた頃は、ツェッペリンに負けないほどのバンドであったと主張している。また、その立場から、ツェッペリンによるヤードバーズ楽曲の使用(「幻惑されて」「トレイン・ケプト・ローリン」「タンジェリン」など)はペイジによる盗作であったと表明している。
- その他のツェッペリンの活動についてはレッド・ツェッペリンの項参照。
因みに余談ではあるが、ツェッペリンは1971、72年に来日公演を果たしており、71年の広島公演では広島市名誉市民として表彰されている。また、広島原爆記念館を訪れ「二度と戦争は起こしてはいけない」と涙ながらに語ってもいる。
ツェッペリンは1980年、ジョン・ボーナムの死去により活動を停止する。
[編集] レッド・ツェッペリン解散以降
ツェッペリン後のペイジのソロ活動は、映画『ロサンゼルス』(Death Wish 2)のサントラから始まる。
スモール・フェイセズのベーシストであったロニー・レインの呼びかけに応じる形で、1982年から1983年にかけて数回行われたA.R.M.S.(チャリティー)コンサートに於いて、レッド・ツェッペリン解散後、はじめてソロでステージに登場することとなった。同コンサートにはペイジと並んで「3大ギタリスト」であるエリック・クラプトンやジェフ・ベックも一堂に会した。 公式映像に収められているペイジのステージはスティーヴ・ウィンウッドをボーカリストとして起用した前述のペイジのサントラから数曲と「天国への階段」を演奏する場面のみであったが、続けてヴォーカルをポール・ロジャース(元フリー、元バッド・カンパニー)にバトンタッチし、オリジナル曲である「ミッドナイト・ムーンライト」を演奏した。これがそのままザ・ファームの結成へとつながる伏線となる。 レッド・ツェッペリンの曲からは唯一演奏された「天国への階段」は、ボーカル抜きのインストルメンタル・ナンバーとしてであった。
1984年には、元レッド・ツェッペリンのメンバーであった、ロバート・プラントや、ジェフ・ベックらとハニー・ドリッパーズ名義でミニ・アルバムをリリース。その後この二名は、後述のとおり度々共演することとなる。
1985年にはロイ・ハーパーのアルバムに参加し、ツアーにも同行する。また同年「両者のソロアルバムを除く、『レッド・ツェッペリン』と、『フリー』『バッド・カンパニー』などの過去のキャリアの楽曲は演奏しない」という暗黙の了解の下、ザ・ファームを結成し2枚のアルバムとライヴツアーを行って解散。(アルバムが2枚発売されたのは、「ヒット曲が出るなど、評判がよかったから」とするペイジ側の発言、「当初から2枚ほどアルバムをリリースし、その後ライヴも行う予定であった」とするロジャース側の発言とが食い違っている。)
1985年のライヴエイドでは、ツェッペリン解散後初めてロバート・プラント、ジョン・ポール・ジョーンズの3人が合流し、「レッド・ツェッペリン」名義で20分ほどのステージ・パフォーマンスを行う。曲目は「ロックン・ロール」「胸いっぱいの愛を」「天国への階段」であったが、当時の日本でのテレビ生中継では、この2曲目だけが放送されなかった。しかし非難の電話が殺到したため翌日全曲放送された。(ドラマーは、トニー・トンプソンと、当時プラントのソロアルバムでプロデュースや一部ドラムを担当したフィル・コリンズの2名であった。)
その後、1988年にはドラマーに故ジョン・ボーナムの息子ジェイソン・ボーナムを迎えて「アトランテック40周年記念」、ジェイソン・ボーナム自身の結婚式(プライベートのライヴ)の二度再結成が行われた。また、1997年のロックの殿堂入りスペシャルライヴとしてエアロスミスのボーカリストであるスティーヴン・タイラーと、ギタリストのジョー・ペリー、そして、ニール・ヤングも加えての再結成ライヴと、最低4回以上は、レッド・ツェッペリン名義の再結成ライヴが行われている。同年ソロアルバムをリリースし、ツアーも行っている。
1993年にはディープ・パープル(第三期〜第四期)のボーカリストで、その後、ホワイトスネイクを結成したデヴィッド・カヴァデールと、カヴァデール・ペイジを結成し、1枚のアルバムと日本ツアーだけで解散する。(カバーディルはツアーを続けることを望んだが、ペイジ側から次段落の理由によってキャンセルされた。)
一方、ソロ活動中心であったロバート・プラントは、そういったペイジの行動に煽られ、刺激を受ける形でペイジと合流し、ペイジ・プラントを結成。2枚のフルアルバムや数枚のシングルをリリースし、数回ツアーを行い、現在は中断状態。 ステージ演奏曲目は結成当初の思惑や発言とは異なり、「天国への階段」を除くレッド・ツェッペリン時代の曲目のオン・パレードとなってしまった。(それまでにも、この二人はステージ等で共演していて、1990年に行われたロバートのソロバンドのステージへのペイジ参加の様子は、コンピレーション形式のオフィシャルのビデオ映像やCDとなって発売されていた。)
2000年以降には、ブラック・クロウズのステージに参加し、そのセッションではレッド・ツェッペリン時代の曲を中心に演奏し、ペイジ・クロウズとしてライヴ・アルバムもリリースした。
その他、チャリティーの活動も盛んに行っている。
[編集] 再結成の可能性
ツェッペリン再結成の噂は幾度となく話題に上るが、新バンドでの活動に意欲的なロバート・プラントは再結成に消極的である。また、ジミーペイジとジョン・ポール・ジョーンズが不仲である(ペイジの口からツェッペリン以前のジョンジーのアレンジ・ワークに対する批判が(名は伏せて)口にされる。また、ジョンジーは近年ベースライン中心のリフ(「ブラック・ドッグ」「オーシャン」「ハートブレイカー」など)は自分が作ったし、その他にも「アキレス最後の戦い」のリフ作りにも貢献したのにクレジットしてもらえなかったと発言している)ことから、未だに(2006年3月現在)再結成は為されていない。
[編集] ペイジと黒魔術
ツェッペリン時代、ペイジは黒魔術へ傾倒していると屡々噂された。彼のお気に入りだったとされるアレイスター・クロウリーの遺した言葉が『レッド・ツェッペリン III』のレコードに刻まれていたり。また、ペイジはクロウリーの元邸宅を別荘として所有していたなど、状況証拠的にそうだと言えなくはないエピソードは幾つも存在するが、「ファッション的に魔術および魔術的イメージを利用していただけである」との声も少なくない。 真偽の程は別にしても、このイメージの為、不幸な事件がレッド・ツェッペリンのメンバーやその周囲に起こる度に人々は「ツェッペリンのカルマ(業)」と囁く様になる。 彼の嗜好に対する当時の(今も?)周りからの嫌悪感を示す有名なエピソードは「天国への階段」の歌詞の一部がレコードを逆回転させると悪魔崇拝のメッセージになるとしてキリスト教会から訴えられてしまったことである。 本人はこれを「デタラメ」であり、「とんでもないナンセンス」と切り捨てている。
[編集] 演奏スタイルとそれに対する評価
[編集] 演奏スタイル
ペイジのギタープレイはブリティッシュ・フォークやカントリーに影響を受けつつも、基本的にはブルースを基本としたものである。しかしながらクラプトンのそれとは大きく異なり、正統的なブルースのプレイからはかけ離れた、当時としては相当にアヴァンギャルドなものであった。ギターの構え方一つ取ってみても、クラプトンが腰の辺り、ベックが腰より少し上の位置でギターを弾くのに対し、ペイジはツェッペリン時代、ギターの下端が膝近くまで来るほどに落として弾いていることもあった(解散後は股間の辺りまで上昇)。当然ここまでギターを落として構えてしまうと、まともに演奏することは不可能ではないにしろ、困難であり、後述するような演奏能力の巧拙に関する数々の議論において度々取り上げられることになる。特にへヴィ・メタルなどのシーンでは技巧の部分(正確無比なピッキング&フィンガリングなど)が重視されやすく、技術よりも曲との整合性重視、手先のギター・テクニックそのものよりも「どういう音が鳴っているか」に意識の重点があったペイジの評価は、残念ながら極めて低い。しかしながら、当時のペイジの姿は全世界のギターキッズの憧れの的となり、「レスポールは低く構えて弾くもの」という流行を作り出した。また、アコースティック・ギターの技術の高さ、セッションマン時代を通して培われたギタープレイの幅の広さには定評がある。
[編集] 使用楽器・特殊奏法
ペイジのサウンド追求に対する情熱は素晴らしく、使用楽器・特殊奏法の多さで知られている。 代表的なものとしては、間奏中のテルミンを使ったパフォーマンス、ギターをヴァイオリンの弓で弾くボウイング奏法、ボトルネックを使用したスライド・ギター、ペダル・スティール・ギター、またペイジの弓弾きをヒントに開発された補助楽器ギズモ・トロン(弦をモーターにより回転する6つのプラスチックの円盤でこする構造になっている)の使用、同じフレーズを繰り返してアドリブの印象を強めるラン奏法、ストラトキャスターのアームを弦が完全に張力をなくすレベルまでダウンさせる独特の奏法など。 また、アイリッシュ・トラッドのギタリストが好んで使うオープン・チューニングの愛用者としても知られており、オープンD、オープンG、オープンC6、そして最も有名なものに「カシミール」などで使用された6弦からDADGADとチューニングする変則チューニングがある。これらの事から、彼の興味はロック、ブルースからアイリッシュ・トラッド、中近東音楽まで多岐に渡っていることが分かる。
[編集] リフ作りの天才
ペイジと言えばリフ作りの天才として有名である。「胸いっぱいの愛を」、「カシミール」に代表されるリフを中心とした曲作りの手法はAC/DCなど後進に多大な影響を与えた。その一方で、同じフレーズを繰り返すという曲構成はロックの曲作りにおける質の低下を招いたとも批判される。ツェッペリン及びペイジ自身は決して単調なフレーズを繰り返していたわけではなく、リズムの緩急の変化やアドリブの挿入などによって単調になることを注意深く避けていたわけではあるが、ツェッペリンのフォロワーには単調なフレーズを繰り返すだけのものも多く、ツェッペリンの作曲の意図が十分に伝わっていないことも多かった。因みに、ツェッペリンのリフは全てペイジによって考案されているかと思いきやそうではなく、近年の音楽メディアのインタビューでは「コード中心或いはコード分解系のリフはペイジ、ベースライン、単音系のリフの作曲者はジョーンズ」であったとジョーンズは強く回想している。つまり「ブラック・ドッグ」や「ハートブレイカー」「オーシャン」「ミスティマウンテンホップ」「モビー・ディック」などツェッペリンを語る上で欠かせない名曲たちはジョーンズが筆頭作曲者(クレジット上は共同作曲者)だったらしい。ペイジからこの件に関して特に反論はされていない。それを追認したとしても殆どのツェッペリンの代表曲(「コミュニケーション・ブレイクダウン」、「胸いっぱいの愛を」、「ランブル・オン」「カシミール」「天国への階段」など)はペイジ作曲によるものであることに変わりはない。だがジョーンズもまた超一流の才能の持ち主であったことは心に留めておかねばならないであろう。
[編集] 演奏の即興性とそれに対する評価
ツェッペリンにおいて、演奏能力の是非が取り沙汰されるのは主にペイジとプラントの二人であり、プラントが喉を痛めたことから高音が出なくなるという純粋に身体的な問題であるのに対し、ペイジは技巧面での演奏能力が批判されるという点で異なる(本人自身も「僕のプレイはレベル的に酷いかも知れない」と僅かに本音を吐露している)。また、レッド・ツェッペリンはインプロヴィゼーション、つまり即興演奏を得意としたバンドであり、ペイジも「二度と同じリフは弾かない」ことから、「スタジオ・バージョンの再現こそが正しいライブの姿」と考える派からは辛い評価を受けがちであった(ツェッペリン・フォロワーだった事で有名なラッシュは、これを反面教師としてスタジオ・バージョンの忠実な再現性に定評のあるバンドになっているのは面白い事実)。
[編集] 海賊盤・ライブから見るキャリア・ピーク
初期のライブ・作品に限っては決してペイジは決して酷い演奏をしているとは言えず、後期の演奏にしてもブルース、アコースティックナンバーではその並外れた技量の高さが伺える。ペイジのギター・テクニックにおけるキャリア・ピークはツェッペリン発足当時の1968年から『レッド・ツェッペリン II』録音当時の1969年頃までと思われるが、その後もムラが大きくはあったにせよ、「永遠の詩」などでは12弦でチョーキングという困難な技を軽々とこなしていたりもするので、1973年ごろまでは技術的にかなり高いレベルにあったといってよい。ペイジの技術が目に見えて衰えてくるのは1973年以降であり、同時にプラントもその辺りを境に高音が出なくなってくるので、ツェッペリン自体の演奏能力におけるキャリア・ピークも1968年から1973年頃にあったとするのが衆目の一致するところであろう。そのようなわけで、1968年から1973年までの公演が海賊盤としては人気がある。
(代表的な海賊盤)
- 「Live On Blueberry Hill」(1970年9月24日 LAフォーラム公演)
- 「Going To Carifornia」(1971年9月14日 バークレー公演)
- 「Front Row」(1971年9月23日 日本武道館公演)
- 「Burn Like A Candle」(1972年6月25日 LAフォーラム公演)
- 「Bonzo's Birthday Party」(1973年5月31日 LAフォーラム公演)
- 「Listen To This Eddie」(1977年6月21日 LAフォーラム公演)
[編集] スタジオ・ワークにおける技量
ペイジのギター・ソロにおける技量については数多くいるギタリストたちの中でも上位にあるとは言えず、ソロ指向の強いハードロック(以下HRと略記)、ヘビーメタル(以下HMと略記)系ギタリストからしばしば芳しくない評価を受けている。但し、バッキングワークに於いてのペイジのプレイは、やっつけ仕事で片付けた感の在るセッションでの数曲を除いてかなり丁寧かつ技術的に高度であることから、そもそもソロによる自身の技術誇示にはあまり興味が無く、加えて元々プロデューサー指向が強く、自分の求める音イメージを具現化することが目的であり、技巧的なことに対して興味はさほど無かったと考えるのが妥当であろう。少なからぬプレイヤーから異口同音に「実際に自分で弾くとわかることだが、ペイジは人が気づかないような意外なところでとてつもなく高度な技術を使っている」と評される事実がよく説明していると言えよう。
ジミー・ペイジという人物は、ブルースに傾倒し、より音楽のピュアな部分を愛したクラプトンや、ソロに全力を注ぎHR/HMというジャンルを追求、一つの様式美を創り出したリッチー・ブラックモア等とは異なり、「ロック」・「ブルース」を追求するのではなく、むしろラディカルにその限界を押し広げた偉大なギタリストである。また、スタジオ・ワークにおける革新的な技術の数々は後進に多大な影響を与えた。
[編集] 吝嗇家説
真偽は不明であるが、吝嗇家と証言する人は少なくなく、レッド・ツェッペリン時代のもうひとつのニックネームは「レッド・ウォレット(鉛の財布)」。
曰く、ピックは絶対投げない、咥えタバコをなかなか棄てない、食事は絶対奢らない、など。有名なエピソードとしては、ツェッペリン創生時、当時未だ無名であり金も無かったプラント、ボンゾと食事を共にした際、新バンドの成功を予感した2人が希望に燃えているところへ、ペイジ自身は売れっ子セッション・ミュージシャンであり金が有ったにも関わらず平然と割り勘を迫ってその場を白けさせたというものがある。二人は帰り道、バンドへの加入を思い止まろうかと真剣に考えたのだという。もっとも「俺はケチじゃないぜ、締まり屋なのさ。この差は大きいぜ」とは本人の談である。
また、自身の海賊盤の熱心な収集家であり、来日の際にはダンボール一杯の海賊盤を料金を払わず持って帰っている。ちなみに、来日のたびに(ブートレグを押収するために)西新宿に出没している(大阪、福岡でも目撃情報あり)。その為この界隈のレコード店では、 付近にジミー・ペイジが出没しているとの情報を聞くと、棚から一斉に高額の商品を抜き出して隠すという防御策をとっているとのことである。ただブートレグを押収したレコード店に対しては少なからず悪いことをしたと思っているのか、罪滅ぼしとして店主とのツーショットの写真撮影に快く応じている。よってそれらの店に行くと、レジの後ろなどに大伸ばしにされたその時の写真が額装され仰々しく飾られている場合がある。
権利面でも厳しく、ツェッペリン楽曲の使用料は高額である。
[編集] 使用ギター
- 1958年製フェンダー・テレキャスター:サイケデリック・ペイント済み。初期のライブなどで使用。ジェフ・ベックから貰ったものと伝えられる。
- 1959年製ギブソン・レスポール・スタンダード:サンバースト(通称No.1)。ペイジのメイン・ギター。ネックが通常のレスポールに比べてかなり薄くなるように削ってあり、テレキャスターに近い感覚で使えるようにカスタムされている。
- 1958年製ギブソン・レスポール・スタンダード:サンバースト、後に赤にリフィニッシュ(No.2)。No.1のサブ・ギター。No.1と同様の改良が加えられていることに加え、後期からソロキャリアにかけて配線などに多くの変更が加えられることになる。
- ダンエレクトロ3021:主にスライド・オープンチューニング用として使用。他のギターでは得られない、良い意味でも悪い意味でも独特なサウンドが得られる。また、ルックスも個性的で、最近ではアメリカのバンドスリーター・キニーのギタリストなどもこのギターを使っていた。ライブでの「カシミール」などで有名。
- (年代不明)ギブソン・レスポール・カスタム・ブラック・ビューティー:ビグスビー・アーム付き。セッション・マン時代からごく初期のライブにて確認可能。後に盗難に遭う幻のギター。3ハム・バッキング・ピックアップ。
- ギブソン EDS-1275:「天国への階段」での使用で有名な、ギブソンSGの6弦&12弦ダブル・ネック・ギター。ペイジの特注品であり、その後正式にギブソンから発売された現行品とは見た目は同じだが、配線やピックアップなどの仕様が異なる。
- 1964年製フェンダー・ストラトキャスター:レイクプラシッド・ブルー。後期のライブから、ソロ期にかけて使用。
- ギブソンJ-200
- マーティンD28
- ハーモニー:「天国への階段」の録音で使用された、アコースティックギター。
- 1994年製オベーションダブルネック・アコースティックギター
- アンディ・マンソン製トリプルネック・アコースティックギター(6弦・12弦・マンドリン):もともとはジョン・ポール・ジョーンズが「テン・イヤーズ・ゴーン」をライブ演奏するために特注したもの。後にペイジもアンディ・マンソンに製作を依頼した。ジョンジー所有のものと外観が若干異なり、配線・ピックアップも異なる。
- フェンダー製ペダル・スティールギター
[編集] ディスコグラフィ
- 「シー・ジャスト・サティスファイズ/キープ・ムーヴィン」 (1965) - She Just Satisfies cw Keep Movin (Fontana TF 533)
- 『ロサンゼルス』 (1982) - Death Wish II The Original Soundtrack (Swan Song SS8511)
- 『ザ・ファーム』 (1985) - The Firm (Victor VDP1016)
- 『ミーン・ビジネス』 (1986) - Mean Business (Victor VDP1080)
- 『アウトライダー』 (1988) - Outrider (Geffen 25XD-1071)
[編集] 外部リンク
- Jimmy Page Online(英語)
- www.ledzep.com(英語)
- Led Zeppelin
- All Music Guide profile
- Interview with Jimmy Page
- December 1999 promo interview
レッド・ツェッペリン |
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ジョン・ボーナム - ジョン・ポール・ジョーンズ - ジミー・ペイジ - ロバート・プラント |
オリジナルアルバム: レッド・ツェッペリン I - II - III - (IV) - 聖なる館 - フィジカル・グラフィティ - プレゼンス - 永遠の詩 (狂熱のライヴ) - イン・スルー・ジ・アウト・ドア - 最終楽章 (コーダ) |
その他のアルバム: ボックスセット - ボックスセット2 - リマスターズ - BBCライヴ - 伝説のライヴ |
映像: レッド・ツェッペリン狂熱のライヴ - レッド・ツェッペリン DVD |
楽曲: 「限りなき戦い」-「天国への階段」-「カシミール」 |
関連事項: ピーター・グラント - スワンソング・レコード |
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