ジェームズ・モンロー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
アメリカ合衆国 5代大統領 | |
任期: | 1817年3月4日 – 1825年3月4日 |
---|---|
副大統領: | ダニエル・トンプキンズ |
出生日: | 1758年4月28日 |
生地: | バージニア州ウエストモーランド郡 |
死亡日: | 1831年7月4日 |
没地: | ニューヨーク州ニューヨークシティ |
配偶者: | エリザベス・コートライト・モンロー |
政党: | 民主共和党 |
ジェームズ・モンロー(James Monroe, 1758年4月28日 - 1831年7月4日)は、第5代アメリカ合衆国大統領。その任期はフロリダの獲得(1819年)、ミズーリ協定(1820年)、モンロー主義の発表(1823年)で特徴づけられた。
目次 |
[編集] 生い立ち
モンローは1758年にバージニア州ウェストモーランド郡で生まれた。彼の父親、木工技師およびタバコ栽培農家のスペンス・モンロー(1727 - 1774)およびエリザベス・ジョーンズ(1729 - ?)は大きな農園を保有していたが、財産は僅かであった。彼はキャンベルタウン・アカデミーで学んだ後ウィリアム・アンド・メアリー大学に入学し、1776年に卒業した。その後大陸会議軍に加わって戦い、トレントンの戦いで功績を挙げる(このとき左肩を負傷している)。戦後はバージニア州フレデリックスバーグで弁護士業を始め、1786年2月16日にニューヨークのトリニティ・チャーチでエリザベス・コートライトと結婚した。
モンローは1782年にバージニア下院に選任され、1783年から86年まで大陸会議に貢献した。若き政治家として、憲法を批准したバージニア協定を結んだ反連邦主義者に加わった彼は、1790年にジェファーソン流政策の主張者として上院議員に選ばれた。1794年から1796年のフランス担当大臣として、彼は、フランスの立場に強い同情を表示した。その後、トマス・ジェファーソン大統領のもと彼はロバート・R・リヴィングストンと共にルイジアナ購入協定を支援した。モンローは1799年から1802までバージニアの知事を務め、1803年には再びフランス担当大臣となる。続いて1803年から1807年までイギリス担当大臣を務めた後、バージニア下院に戻り、1811年に再びバージニア知事に選任される。しかしながらその職を数カ月後に辞職し、1811年から1814年まで国務長官を務めた。1814年10月1日に陸軍長官に任命されるが、臨時国務長官も兼任した。1815年2月28日に彼は再び国務長官に任命され、陸軍長官を辞任する。ジェームズ・マディスン大統領の任期終了までモンローは国務長官職に留まり、翌日から彼は大統領としての任期を始めることとなった。
[編集] 大統領職
ジェームズ・モンローは1816年の選挙で大統領に選出され、1820年に再選されて2期8年間大統領職を務めた。モンローは大統領を務めた最後のアメリカ独立戦争退役軍人であった。
既にフェデラリスト党(連邦党)は衰え、この段階ではリパブリカン党(広義での民主共和党)による事実上の一党支配がなされていた。こうした政党対立が見られなかった政治的状況を「好感情の時代 (The Era of Good Feeling)」とも称する。ただし、この後まもなくリパブリカン党内部で内部対立が深化し、民主共和党(狭義の民主共和党(Democratic-Republican)、まもなく民主党と改称)と国民共和党(National-Republican、まもなくホイッグ党と改称)へ分裂した。
モンローは、アメリカの孤立主義政策を象徴するモンロー主義を掲げたことでよく知られている。1823年12月2日、議会における教書演説で、南北アメリカは将来ヨーロッパ諸国に植民地化されず、主権国家としてヨーロッパの干渉がないべきであることを宣言した。当時、ラテンアメリカ各地で独立運動が高揚しており、これに対するヨーロッパのウィーン体制諸国の干渉を牽制する意図もあった。さらに、より現実的な脅威として、当時はアラスカがロシア領であり、これ以上のロシアの南下政策を懸念するという状況もあった。
[編集] 内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | ジェームズ・モンロー | 1817–1825 |
副大統領 | ダニエル・トンプキンズ | 1817–1825 |
国務長官 | ジョン・クィンシー・アダムズ | 1817–1825 |
財務長官 | ウィリアム・クロウフォード | 1817–1825 |
陸軍長官 | ジョージ・グラハム | 1817 |
ジョン・カルフーン | 1817–1825 | |
司法長官 | リチャード・ラッシュ | 1817 |
ウィリアム・ウィート | 1817–1825 | |
郵政長官 | リターン・ジョナサン・メグズ | 1817–1823 |
ジョン・マクレーン | 1823–1825 | |
海軍長官 | ベンジャミン・ウィリアムズ・クラウニンシールド | 1817–1818 |
ジョン・カルフーン | 1818–1819 | |
スミス・トンプソン | 1819–1823 | |
サミュエル・サウサード | 1823–1825 |
[編集] 指名した最高裁判所判事
- スミス・トンプソン - 1823
[編集] 大統領職後
モンローの任期は1825年3月4日に終了した。モンローはホワイトハウスを去り、モンロー・ヒルに移り住んだ。現在のバージニア大学は、1788年から1817年までモンローの所有する農場であった。しかしながら、モンローは大統領に就任した年にその土地を新しい大学に売却した。彼はその後ジェファーソン元大統領およびマディソン元大統領の委員会の委員を務めた。
モンローは公的生活の間に多くの債務を負い、その結果、自宅のアッシュ・ローン・ハイランドを手放すことを強いられた(現在同邸宅はウィリアム・アンド・メアリー大学が所有し一般に公開されている)。モンローは経済的に困窮し、妻エリザベスの健康問題も生活を苦しいものとした。モンローはエリザベスが死去した1830年9月23日までオーク・ヒルで生活した。
[編集] 晩年
エリザベスが死去すると、モンローはニューヨークに住む娘のマリア・ヘスター・モンロー・ガバヌーアと共に暮らし、1831年7月4日に心不全と結核で死去した。彼はニューヨークに埋葬されたが、1858年にバージニア州リッチモンドのハリウッド墓地にあるプレジデンツ・サークルに再埋葬された。
[編集] 関連項目
- 1816年アメリカ合衆国大統領選挙
- 1820年アメリカ合衆国大統領選挙
[編集] 外部リンク
- A genealogical profile of the President
- White House Biography
- James Monroe Biography and Fact File
- プロジェクト・グーテンベルクにおける Works by James Monroe
- The Presidential Home of James Monroe (College of William and Mary)
- The Papers of James Monroe at the Avalon Project
- Monroe Doctrine and related resources at the Library of Congress
- James Monroe's Health and Medical History
- James Monroe Birthplace Commission
- InfoPlease- James Monroe
- The Religion of James Monroe
- アメリカ合衆国国務長官
- 1811 - 1814 , 1815 - 1817
-
- 先代:
- ロバート・スミス
- 次代:
- ジョン・クィンシー・アダムズ
- アメリカ合衆国大統領
- 1817 - 1825
-
- 先代:
- ジェームズ・マディスン
- 次代:
- ジョン・クィンシー・アダムズ
- アメリカ合衆国陸軍長官
- 1814 - 1815
-
- 先代:
- ジョン・アームストロング・ジュニア
- 次代:
- ウィリアム・クロウフォード
アメリカ合衆国大統領 | |
---|---|
ワシントン | J・アダムズ | ジェファーソン | マディスン | モンロー | J・Q・アダムズ | ジャクソン | ビューレン | W・ハリソン | タイラー | ポーク | テイラー | フィルモア | ピアース | ブキャナン | リンカーン | A・ジョンソン | グラント | ヘイズ | ガーフィールド | アーサー | クリーブランド | B・ハリソン | クリーブランド | マッキンリー | T・ルーズベルト | タフト | ウィルソン | ハーディング | クーリッジ | フーヴァー | F・ルーズベルト | トルーマン | アイゼンハワー | ケネディ | L・ジョンソン | ニクソン | フォード | カーター | レーガン | G・H・W・ブッシュ | クリントン | G・W・ブッシュ |
カテゴリ: アメリカ合衆国の大統領 | アメリカ合衆国の国務長官 | アメリカ合衆国陸軍長官 | バージニア州の人物 | 1758年生 | 1831年没