マーティン・ヴァン・ビューレン
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アメリカ合衆国 8代大統領 | |
任期: | 1837年3月4日 – 1841年3月4日 |
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副大統領: | リチャード・M・ジョンソン |
出生日: | 1782年12月5日 |
生地: | ニューヨーク州キンダーフック |
死亡日: | 1862年7月24日 |
没地: | ニューヨーク州キンダーフック |
配偶者: | ハンナ・ヴァンビューレン |
政党: | 民主党 |
マーティン・ヴァンビューレン(Martin Van Buren, 1782年12月5日 - 1862年7月24日)は、アメリカ合衆国の第8代副大統領および第8代大統領。オールド・キンダーフックの愛称で呼ばれ、彼は最初の独立宣言署名後に生まれた大統領であり、最初の非アングロ系家系出身であり第一言語が英語でなかった(オランダ語)大統領。彼は民主党の最初の主催者であった。
目次 |
[編集] 生い立ち
ヴァンビューレンは、ニューヨーク州の州都オールバニーの5マイル南に位置するキンダーフックの村で、20人兄弟の三番目として生まれた。彼の曾曾曾祖父のコーネリスは1631年にオランダから移住した。マーティンの父親エイブラハム・ヴァンビューレン(1737年2月17日 - 1817年4月8日)は、農夫であり評判の居酒屋の主人であった。母親のマリア・ホーズ(1747年2月27日 - 1817年2月16日)は前夫との間に3人の子どもがいた。
ヴァンビューレンはコモン・スクールおよびキンダーフック・アカデミーで教育を受けた。1796年に彼は法律を学び始める。ニューヨークでウィリアム=ピーター・ヴァンネス(1778 - 1826)に学び、1802年に学業を終えると、翌年彼は法曹界入りし、25年にわたって弁護士業を継続した。
1807年2月21日に、彼はハンナ・ホーズと結婚した。
彼は弁護士業で財をなし、政界入りの道を開いた。1800年以降のニューヨーク政界では、選挙においてトーマス・ジェファーソンとフェデラリストが没落し、共和党は3つの党派、ジョージ・クリントン、ロバート・リヴィングストン、アーロン・バーそれぞれの支持者に分裂していた。1799年以後フェデラリストはこれらのグループの一つあるいは二つの連合によって支配されていた。ヴァンビューレンはクリントン支持派と連合し、1808年から1813年までコロンビア郡の代理人を務めた。1812年に彼は州上院入りし、ニューヨーク上訴裁判所の修正法廷のメンバーとして1847年まで務めた。
[編集] 初期の政治経歴
[編集] 大統領職
[編集] 内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | マーティン・ヴァン・ビューレン | 1837–1841 |
副大統領 | リチャード・M・ジョンソン | 1837–1841 |
国務長官 | ジョン・フォーサイス | 1837–1841 |
財務長官 | レヴィ・ウッドベリー | 1837–1841 |
戦争長官 | ジョエル・ポインセット | 1837–1841 |
司法長官 | ベンジャミン・フランクリン・バトラー | 1837–1838 |
フェリックス・グランディ | 1838–1840 | |
ヘンリー・D・ジルピン | 1840–1841 | |
郵政長官 | エイモス・ケンダル | 1837–1840 |
ジョン・M・ナイル | 1840–1841 | |
海軍長官 | マーロン・ディカーソン | 1837–1838 |
ジェイムズ・ポールディング | 1838–1841 |
[編集] 指名した最高裁判所判事
- ジョン・カトロン - 1837
- ジョン・マッキンレー - 1838
- ピーター・ヴィヴィアン・ダニエル - 1842
[編集] その後
任期の終了後、ヴァンビューレンは故郷のキンダーフックへ戻り、ホワイトハウスへの復帰を考えた。彼は1844年の大統領選挙において候補氏名のアドバンテージを持つと考えられた。彼の有名な1844年4月27日の手紙では、彼は率直にテキサス州の併合に反対の意見を示しており、それは後に彼の敗北に寄与することになったのだが、指名を実際に確信するまで公にされなかった。民主党大会で彼は投票の多数を獲得したが、規定に定められた3分の2を得票できなかった。8度の投票の後に、ダーク・ホースのジェームズ・ポークが民主党大統領候補の指名を得た。
1848年の大統領選挙では、彼は二つの小政党によって指名された。最初は民主党員の党派によって結党された「バーンバーナー」によって、次に「自由土地党」によってであった。しかしながら選挙人団投票で勝利を得ることはなかった。1860年の選挙ではエイブラハム・リンカーンに反対する選挙人融合を支持した。しかしジェームズ・ブキャナン大統領の南北分裂に対する姿勢を支持できず、最終的にはリンカーンを支援した。
ヴァンビューレンは1861年秋に彼は肺炎で寝たきりとなり、1862年7月24日の午前2:00にキンダーフックの自宅で気管支喘息と心不全で死去した。彼はキンダーフック墓地に埋葬された。
[編集] 関連項目
- 1832年アメリカ合衆国大統領選挙
- 1836年アメリカ合衆国大統領選挙
- 1840年アメリカ合衆国大統領選挙
[編集] 外部リンク
- White House biography
- Van Buren biography from Kinderhook Connection
- 就任演説
- RootsWeb.com: The Van Buren Family, since the 17th century
- First State of the Union Address of Martin Van Buren
- Second State of the Union Address of Martin Van Buren
- Third State of the Union Address of Martin Van Buren
- Fourth State of the Union Address of Martin Van Buren
- Martin Van Buren National Historic Site (Lindenwald)
- アメリカ合衆国国務長官
- 1829 - 1831
-
- 先代:
- ヘンリー・クレイ
- 次代:
- エドワード・リヴィングストン
- アメリカ合衆国副大統領
- 1833 - 1837
-
- 先代:
- ジョン・カルフーン
- 次代:
- リチャード・M・ジョンソン
- アメリカ合衆国大統領
- 1837 - 1841
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- 先代:
- アンドリュー・ジャクソン
- 次代:
- ウィリアム・ヘンリー・ハリソン
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