たこ八郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たこ 八郎(たこ はちろう、本名:斎藤 清作(さいとう せいさく)、男性、1940年11月23日 - 1985年7月24日)は、日本の宮城県仙台市出身のコメディアン・俳優で元プロボクサー。愛称は「たこちゃん」
- 1962年 日本フライ級王者(2度防衛)
目次 |
[編集] プロフィール
仙台市内の農家に8人兄弟の次男として生まれる。少年時代に友達とどろんこの投げ合い遊びをしていて、泥が左眼に当たったことが原因で左眼を失明(すぐに病院に行き、治療すれば失明はしなかったらしいが、少年時代は裕福な家庭では無かった為、病院に行けば親に迷惑がかかると思い黙っていたと後に語っている)。
仙台育英学園高等学校在学中ボクシング部に入部、2年生時には宮城県大会で優勝している。その後、上京し、様々な職を転々とした後、笹崎ボクシングジムに入門。左目の障害を隠し、視力表を丸暗記してプロテストに合格、プロボクサーとしてデビューした。同ジム同期にはファイティング原田がいたが、フライ級の東日本新人王戦の準決勝で原田との同門対決となったため対戦を辞退している。
1962年、第13代日本フライ級チャンピオンになった。髪型を河童のように刈り込んだことから"河童の清作"と呼ばれた。また、ファイターぶりが漫画「あしたのジョー」(作・高森朝雄、画・ちばてつや)のモデルになったとも言われている。
左眼が見えないハンデを相手に悟られないように、相手のパンチをかわさず打たれ続け、さらに挑発的な言葉を相手に投げかけ、相手が打ち疲れ戦意を喪失した後に反撃するファイトスタイルを用いた。ファイティング原田は「どんなに打たれても倒れず、耳元で『効いてない効いてない』とささやき続けた。対戦相手にとってはそれが本当に怖かった」と語っている。しかし、受けた頭部へのダメージによりパンチドランカーとなり、引退。
- 1960年9月 プロデビュー。
- 1960年11月 ノンタイトル4回戦。後の東洋王者、青木勝利と引き分け。
- 1962年6月 ノンタイトル8回戦。後の東洋王者、中村剛に判定勝ち。
- 1962年12月28日 日本フライ級王座に挑戦。野口恭に10回判定勝ちで王座獲得。以後2回防衛。
- 1964年4月2日 日本王座3度目の防衛戦。10回判定で敗れ王座陥落し、現役引退。
最終戦績34勝(11KO)8敗1分
[編集] コメディアン・たこ八郎
引退後、同じ宮城県出身ということでコメディアンの由利徹に弟子入りし役者として芸能界デビューする(最初は、由利徹は弟子にするつもりはなく、弟子入りを希望してきたたこに、断る口実として「ボクシングでチャンピオンになったら弟子にする」という条件を出し、まさか本当に日本王者になるとは思っていなかったが、実際に王者になったので、それならと弟子入りを認めたと言う)。芸名の"たこ八郎"の由来は、自宅近くの行き付けの居酒屋「たこきゅう」から採った。いつも酩酊状態(のような演技)で、"たっこでーす"という決まりのせりふと、コミカルな風貌でお茶の間の人気者になり、映画にも出演している。金粉を全身に塗って走ったこともある。
その芸風からプロボクサー時代が想像しにくいが、映画「幸福の黄色いハンカチ」での高倉健との喧嘩シーンでは切れのある動きでかつての片鱗を垣間見せた。同映画で共演した武田鉄矢はラジオで「撮影の合間に数人のチンピラに絡まれたことがあるが、たこさんがヌーッと出てきてフッと動いた次の瞬間、チンピラ全員が地面に倒れていた」というエピソードを披露したことがある。
セリフ覚えなどは問題があったもののTV画面などで魅せる姿は彼の完璧なる「演技」で、自分の役割を心得て計算をしていたと言われる。非常に頭のいい「たこ」であった。
入門直後は、師匠の由利宅に住み込みだったが、まだパンチドランカーの症状が残っており、台詞覚えが悪く、おねしょも度々あったため本人がそれを気にし、家を出て友人宅を泊まり歩いた。受け入れた友人達も「迷惑かけてありがとう」という彼の素朴で温厚な人柄に触れ、邪険に扱うことはなかった。また、毎晩のように飲み屋で過ごしていたが、請求が来ることは無かったという。誰からも好かれる芸人であった。
人気絶頂期の1985年7月24日、神奈川県真鶴町の海水浴場で飲酒後に海水浴をし、心臓マヒを起こして亡くなった(死の直前、その姿を週刊誌に写真を撮られていたことは知られているところである。又、その頃にはパンチドランカー症状は自力でかなり改善していたとも言われている)。葬儀・告別式の葬儀委員長は、たこ八郎の遺言通り、漫画家の赤塚不二夫が務めた。葬儀委員長を赤塚が務める事になった理由は、赤塚とたこ八郎等が共演した中部日本放送制作の名古屋ローカルのトーク番組で、たこ八郎が赤塚に「もし、俺が死んだら葬儀委員長をやってほしい」と冗談交じりに話し掛けた。その後、たこ八郎の突然の死で、冗談が現実のものとなった。新聞には「たこ、海で溺死」、弔問に訪れたタモリは「たこが海で死んだ。何にも悲しい事はない」と、彼の死を悼んだ。
のちに、彼の不慮の死を悼んだ友人の友川かずきが、たこ八郎に捧げた曲“彼が居た”を含む追悼アルバム『無残の美』をリリースした。また、かつて友川のアルバム『海静か、魂は病み』では、コーラス(叫び声)で参加していた。
[編集] 座右の銘
「迷惑かけてありがとう」
[編集] 出演作品
- 幸福の黄色いハンカチ (1977年)
- ムー (1977年)
- ムー一族 (1978年)
- トラック野郎 熱風5000キロ (1979年)
- 下落合焼とりムービー (1979年)
- 探偵物語 (1979年)
- 戦争の犬たち (1980年)
- 思えば遠くへ来たもんだ (1980年)
- 愛染恭子の未亡人下宿 (1984年)
- パンツの穴 (1984年)
- カポネ大いに泣く (1985年)
- ビッグマグナム黒岩先生 (1985年)
[編集] TV出演
[編集] 音楽
- 「たこでーす。」(作詞:くのたかし、作曲・編曲:久石譲)
[編集] 書籍
- 『たこでーす。~オレが主役でいいのかなぁー~』(アス出版:ISBN 4900402036)
- 『昭和のチャンプ たこ八郎物語』(葦書房:ISBN 4-7512-0736-9)
[編集] 自伝ドラマ
- 迷惑かけてありがとう
NHKの「銀河テレビ小説」 1984年6月4日~6月24日、 20回連続で放送。 たこ八郎役は柄本明。
- 昭和のチャンプ~たこ八郎物語~
1990年2月、TBS系の『月曜ドラマスペシャル』で放映。 たこ八郎役は片岡鶴太郎。片岡鶴太郎はフジテレビ系『オレたちひょうきん族』で、たこ八郎のものまねをやっていた。
[編集] たこ(八郎)地蔵
東京都台東区下谷2丁目にある『下谷法昌寺』に、『たこ(八郎)地蔵』が建っている。この地蔵は、たこ八郎のトレードマークだった髪型と、酒場での喧嘩で拳を使わずかじり取られたとされる右耳を象っている。人気絶頂のうちに突然他界した、たこ八郎の霊を慰めようと、1985年秋、由利徹と赤塚不二夫、映画監督の山本晋也らが発起人となって建てられた(たこ八郎の墓は、故郷の宮城県にあるが、赤塚らが『東京でもお参りする所があったらいい』との提案から建てられた)。胴体の部分には、たこ八郎の遺筆による座右の銘『めいわくかけて ありがとう たこ八郎』と刻まれている。