麋芳
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糜芳(びほう、169年?-?)は、三国時代の蜀、呉に仕えた武将。劉備に仕えた糜竺の弟。糜夫人の兄。字は子方。
徐州東海郡の人。はじめ兄の糜竺と共に陶謙に仕え、次いで劉備に仕えた。劉備に従って転戦し各地で功績を挙げたが、姻戚であるのにも関わらずさほど重用されなかった。
劉備が益州に入った後、荊州総督である関羽の配下として南郡に駐屯し、公安を守る士仁とともに荊州の防衛を任された。関羽とは日頃から折り合いが悪く、糜芳もまた「自分は関羽に重んじられていない」と常々不満に思っていた。
219年、関羽が北上し、樊城攻略を開始すると、糜芳と士仁は物資補給など後方からの支援に徹し、全力で支援をしなかった。また、南郡城内で失火事件が起こり、軍器がいささか焼失した事があった。関羽が糜芳のそれらの不始末をとがめると、糜芳は関羽を恐れるようになり、両者は不和となった。それに目を付けた孫権が内応を持ちかけると、糜芳は呉と通じるようになった。呂蒙が南郡攻略を開始すると、糜芳ははじめ城に立て篭もった。しかし、士仁が呂蒙とともに居るのを見ると、酒と肉を用意し、城門を開いて呂蒙に降伏した。
孫権の命で賀斉配下の武将となり、呉から魏に寝返って反乱を起こした晋宗の討伐で活躍した他、以下のような話が正史・虞翻伝に記されている。
糜芳は呉に仕えるようになってから、虞翻と船ですれちがった事があった。糜芳の部下が「将軍の船のお通りだ」と言うと、虞翻は「忠信を守れない者が、何によって主君に使えるというのか。二城(南郡・公安)を任されながらそれを失った者が、将軍を名乗って良いなどと思っているのか?」と罵倒した。糜芳は姿を見せず返答もしなかったが、急いで虞翻の船を避けさせた。 またある時、虞翻が糜芳の軍営の前を通りかかると、役人が軍営の門を閉ざしていたため、通れないという事があった。虞翻はまた腹を立てて「(城門を)閉めるべき時に開けて降伏をしたりしながら、開けておくべき時に門を閉ざしたりしている。物事の正しいやり方を分かっているのか」と罵倒した。糜芳はこれを恥じ入り、門を開けさせた。