士仁
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士仁(しじん、182年?-?)は、三国時代の蜀漢、次いで呉の武将。字は君義。広陵郡の人。三国志演義、正史・関羽伝では傅士仁と記されている
劉備に仕える将軍として荊州の公安城に駐屯し、南郡太守である麋芳とともに荊州の守備を任されていた。双方とも荊州の軍事総督である関羽と常日頃から折り合いが悪く、「関羽は自分達を軽視している」と嫌っていた。関羽が(樊城に向けて)出陣すると、二人は軍需物資の補給など後方支援に徹し、手勢を裂くなど全力での支援をしなかった。その事を恨みに思った関羽が「(戦に勝って)帰還したらこいつら(麋芳・士仁)を粛清しなければならない」と言ったので、以後、二人は何時殺されるかと恐怖を抱くようになり、行動が定まらなくなった。
樊城に出陣した当初、関羽は呂蒙を警戒して南郡(麋芳)・公安(士仁)のもとに兵力の一部を残していた。呂蒙はこの兵力を戦略上の障害と考えていた。そのような時、関羽と麋芳・士仁の間が上手くいっていない事を知った。呂蒙は、自身が病を偽って前線を退くことで関羽を油断させ、その隙に南郡を攻め取る事を孫権とともに謀った。この計略に引っかかった関羽は、以後は南郡・公安の守備兵を減らして樊城攻略に充てるに至るが、この間も南郡攻略の計画は着々と進んでいた。士仁が呉からの降伏勧告の使者である虞翻と接触した時には、商船に偽装された呂蒙の軍船が、蜀側の誰にも気付かれぬまま荊州の奥深くにまで侵入しており、包囲は時間の問題となっていた。士仁は、涙ながらに降伏した。
三国志演義では222年、関羽の敵討ちで攻めてきた蜀軍に怯えて呉から離反して、劉備に命乞いしたが許されず、関羽の子・関興に斬られている。