高帝 (南朝斉)
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高帝(こうてい、427年 - 482年、在位は479年 - 482年)は、斉の初代皇帝。姓は蕭。諱は道成。字は紹伯。廟号は太祖。宋の蒼梧王を殺害し、擁立した最後の皇帝順帝より禅譲を受ける形で斉をたてた。
[編集] 略歴
蕭氏は蘭陵(山東省)を本貫とし、前漢の丞相・蕭何の子孫と称し、宋代に淮陰(江蘇省淮陰市)に移った。父の蕭承之は宋の初めごろに武功があった。しかし当時の貴族制に於いては軍人は寒門(家格が低い)でしかなかった。
蕭道成は447年に雍州刺史・蕭思話の参軍となり、対北魏戦に戦功を挙げ、明帝の時に驍騎将軍・西陽県侯・南兗州(えんしゅう、兗は大に兄)刺史となり、淮陰にて北魏に対した。自費を持って兵士を集めて勢力を拡大し、一時は明帝に疑われることもあったが、明帝が死去するに際して右衛将軍・衛尉に進んだ。
474年に後廃帝の叔父の桂陽王劉休範の反乱が起きるが、これを蕭道成が鎮圧し、この功により中領軍となり、禁軍を掌握し、独裁体制を築いた。477年、これに反抗した後廃帝は蕭道成を誅殺しようと目論むが、逆にこれを殺して順帝を立て、自らは侍中・司空・録尚書事・驃騎大将軍となった。
蕭道成の専横に反対する沈攸之・袁粲・劉秉らが兵を起こすが、これを鎮圧して更に権力を高め、479年に相国・斉王となり、順帝よりの禅譲を受けて斉を建てた。
即位した高帝は権力獲得の途上から建国後までに宋の皇族を多数殺害したために不評を買った。その一方で戸籍の整備を行って部曲(私兵)の制限を行うなど内治に意を用い、自らは倹約に励んで、次代の武帝時代まで斉の治世としては小康状態を保った。と言っても斉は23年しか国を保てず、この時代も全盛期と呼べるものではない。
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