韓浩
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韓浩(かんこう、164年?-219年?)は、三国時代の魏の武将。字は元嗣。
司隷河内郡の人。はじめ河内郡の太守・王匡に仕えていた。王匡が董卓討伐軍に参加したとき、孟津で大いに活躍した。この活躍を聞いて袁術に取り立てられた。その後、同じくこの活躍を聞いた夏侯惇に見出され、曹操に推挙されて、仕えることとなったのである。
武勇に優れ、呂布との戦いなどで活躍した。政治的にも優れ、曹操に対して屯田を行なうように提言している。智勇に優れ、多くの功績を挙げた韓浩は曹操から大いに信任された。
三国志演義では長沙の太守・韓玄の弟とされているが、正史にそのような記述は無く、恐らくは演義の創作・あるいは同姓同名の別人だと思われる。また、演義では黄忠が自分の兄を討ち取ったと思いこみ、漢中攻防戦で張郃と夏侯尚と共に兄の恨みを晴らすべく黄忠・厳顔を攻めるが、逆に彼らの策にかかり敗走し夏侯徳の陣にまで逃げ帰る。そこに黄忠が出陣し黄忠に対し一騎打ちを挑むが逆に討ち取られたことになっているが、正史では病死とされている。韓浩が死んだとき、曹操はその死を惜しんだという。