雪見山堅太夫
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雪見山堅太夫(ゆきみやま けんだゆう)とは、永い大相撲の歴史上、江戸時代に乱立された看板大関など、便宜上存在した大関も含め、全ての大関の始祖とされ、初代大関に認定されている力士である(但しそれ以前の、大関に当たるか、もしくは大関に相当する階級・称号に該当する者は除く)。
しかし、谷風梶之助(初代)の最高位が『大関』と強調されることから、実質的に初代大関であった人物とは断定できず、あくまで現存する最古の番付表を起点とした「正式な記録が物語る上での最古(初代)の大関」としての見解が妥当であろう。
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[編集] 来歴
- 肥前田代(現・佐賀県鳥栖市田代町)の出身。体重は37貫(139kg)あり、当時としては大型の力士である。
- 当初は響野と名乗り、肥後の竹島甚四郎の門弟となる。後に雪見山と改め、熊本藩(当時は肥後藩と呼ばれていた)のお抱え力士となる。
- 剛力で右を差せば無敵であったと伝えられ、宝暦6年(1756年)に上方(京・大坂)に初上りして江戸には宝暦7年(1757年)10月に東大関として番付に登録される。
- 以後、常に番付は上位に在り、明和8年(1771年)の京都興行の時に達ヶ関(谷風梶之助が谷風を名乗る1つ前の四股名)を見事な掬い投げで破り、評判となる。
- 引退間際の安永4年(1775年)3月、下の名前を鉄右衛門と改名している。
- 引退後は九州相撲の頭取となり、八ツヶ峰住右衛門・筆ノ海金衛門らを門下に従え、育成した。
※参考文献:古今大相撲力士事典より
[編集] 土俵人生の詳細
- 出身地・・・・佐賀県鳥栖市田代町
- 四股名・・・・響野 → 雪見山
- 所属部屋・・・竹島(肥後)
- 初土俵・・・・宝暦7年10月 大関付け出し(看板大関)
- 新入幕・・・・宝暦7年10月 10月場所
- 最終場所・・・安永6年 4月場所
- 最高位・・・・大関
- 幕内在位・・・28場所
- 幕内成績・・・70勝27敗5分14預17無
- 勝率・・・・・0.722
- 優勝・・・・・0回(優勝制度が無い為。但し、現在の優勝に相当する成績は1回ある)
- 体重・・・・・37貫(139㌔)
- 年寄・・・・・雪見山
※参考文献・・・・古今大相撲力士事典
[編集] 雪見山の概容
現存する江戸相撲の最古の番付である宝暦7年(1757年)10月のものに、雪見山の名前がある。大関をつとめたのはこの場所限りで、そのあと一度番付から姿を消したが、まもなく関脇や前頭上位に名をあらわし、安永6年(1776年)4月の番付まで約20年にわたって最上段に名前がある。その間に関脇4場所、小結5場所をつとめているところから判断すると、実力をかねそなえていたので、最初は看板大関的な存在ではあったかもしれないが、実力を認められて、安定した力士として活躍したようである。
その点では、後の横綱免許の谷風梶之助も最初は看板大関からスタートしたのと同じような経歴であり、現存する番付で確認できる最初の大関力士としてふさわしい存在である。
[編集] 大関の沿革・横綱との関係
大関の歴史は横綱のそれよりも遥かに古く、少なくても江戸時代よりも前から既に存在していたことは確かである。平安時代の相撲節会の時代には、最高位の力士には最手(ほて)という称号が与えられており、それが起源であると言われる。
現在、財団法人日本相撲協会が認定している初代横綱・明石志賀之助が日下開山の称号を受けたのは、3代将軍の徳川家光が天下の政権を握っていた時代であるということになっている。
その時代にはまだ横綱という階級が存在せず、その為、日下開山(ひのしたかいさん(またはひのしたかいざん)、天下のお日さまの下(もと)で大きくそびえ立つ山という意味)という名称が最強力士の呼び名であった。
正式な横綱免許を受けたのは江戸時代中期の第4代横綱の谷風梶之助と第5代横綱の小野川喜三郎の二人で吉田司家より初の正式免許を受けている。このとき、前例を重んじる江戸幕府の慣例によって、横綱免許が史上初でないことを示すために、現在、第2代横綱とされている綾川五郎次と、第3代横綱に認定されている丸山権太左衛門の名前が記述されたと考えられている。
[編集] 他の観点から見た大関の階級的見解
軍隊で例えれば、大将の階級にある軍人の中で特に優れた人物が元帥府に列せられることに於いて与えられる元帥が階級ではなく、称号であるのと同じであり、いうなれば大関が大将にあたり、横綱が元帥にあたると考えれば解かり易かろう。
ただし、昭和初期によく行われた以上の説明は、江戸時代から明治初期においての横綱の位置づけとしては妥当な説明であるが、横綱が階級として決定づけられている現在には必ずしも該当しない。