吉田司家
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吉田司家(よしだつかさけ)は、大相撲の行司の司家である。志賀清林を祖とする志賀氏の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田家次追風から始まり、代々相撲の司家として代々「追風」の号を名乗る。元来、京都行司を務めていたが、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、以来、熊本県熊本市に住む。
江戸時代に興行としての大相撲の江戸相撲が始まったときに、その司家となった。寛政元年(1789年)11月に第4代横綱谷風梶之助と第5代横綱小野川喜三郎に横綱免許を授与して以来、江戸相撲では吉田司家の免許を持つ者が正式な横綱として認められてきた。当初はこの2人の後には横綱免許は出さないつもりだったらしく、2人の現役中に彗星のごとく登場した雷電爲右エ門のようにずば抜けた強さの大関でも横綱免許は授与されていない者が数名存在する。
寛政3年(1791年)6月11日征夷大将軍徳川家斉の上覧相撲の際、町奉行池田筑後守から認められず、6月10日になって老中戸田采女正から行司を命じられ、一晩で土俵を作った。
文政10年(1827年)江戸幕府により「江戸相撲方取締」という役を認められた。
後、文政11年(1828年)2月に阿武松緑之助、天保11年(1840年)11月に不知火諾右衞門、弘化2年(1845年)11月に秀ノ山雷五郎に横綱免許した。
西南戦争で司家が西郷隆盛率いる反乱軍に従軍してからは一時的に権威が弱体化し京都の五条家があちこちで横綱免許を出したが梅ヶ谷藤太郎が吉田司家による免許を望んでからは権威も回復した。後に大坂相撲にも吉田司家の免許を持つ公認横綱が4人登場した。
第40代横綱東富士欽壹までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は司家以外が出すことも認められたという)が続いたが、第41代横綱千代の山雅信以降は日本相撲協会が横綱推挙を行なうことになり免許権が失なわれた。なお第59代横綱隆の里俊英までは司家も推擧式に参加し、司家の13尺土俵における奉納の土俵入りも行なわれたが、第60代横綱双羽黒光司以降は司家は推挙式に参加せず、13尺土俵での新横綱による奉納土俵入りも行なわれていない。
現在、吉田司家と日本相撲協会との関係が疎遠になっているのは、吉田司家が度々事業などによる負債問題を起こしたことによるもので、今も問題決着の見通しは立っていない。