随何
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随 何(ずい か、生没年不詳)は、秦末から前漢初期にかけての、儒者、政治家、外交官。六(りく)の人。
[編集] 略歴・人物
劉邦が、彭城の戦いで項羽に大敗し、傘下の諸侯に次々と寝返られて、苦境に立った時、劉邦から、項羽の片腕とも言うべき、随何の同郷である九江王英布を寝返らせることを命じられる。同郷の情念に駆られ、また項羽の行為に疑問を持った英布は彼の説得に応じ、随何の役目は見事に成功した。
垓下の戦いに敗れた項羽が自殺し、劉邦が帝位(高祖)に即いて間もなく、大勢の臣下の前で、随何をからかって次のように言った。
- 「随何は、腐れ儒者だ。何の役にも立たんわ。」
儒者として侮辱を言われた随何は次のように言い返した。
- 「陛下にお尋ねいたします。彭城で陛下が敗れた時、騎兵五千と歩兵五万をもって九江をお手に入れることが出来ましたでしょうか?」
劉邦が答える。
- 「まあ、わしでは無理であろうな。」
随何は、再び尋ねる。
- 「陛下は、五万五千の兵を用いても下すことの出来なかった九江を舌先三寸で降伏させた私を役立たずと仰せになられる。果たしてそのような根拠はどこから出てくるのでございましょうか?」
劉邦は、自らの失言を恥じ、ついに随何に護軍中尉の職を与えたという。
裏話:この随何の場合もそうだが、劉邦はかなりの儒者嫌いだった。その理由は定かではないが、ひどい時には、儒者の冠を取り上げ、その中に放尿をしたという。