関所
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関所(せきしょ)とは、交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設である。単に関(せき)とも。陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。陸路では、峠や河岸に設置されることが多い。
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[編集] 日本
[編集] 古代
日本では古代に既に制度化されており、東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関が畿内を防御するために特に重視され、これを三関という。三関から東は東国または関東と呼ばれた。平安時代中期以後は、愛発関に代わり、逢坂関が三関に加えられた。
三関のほか、東海道の駿河・相模国境には足柄関、同じく東海道の常陸・陸奥国境には勿来関、東山道の信濃・上野国境には碓氷関、同じく東山道の下野・陸奥国境には白河関、北陸道の越後国・出羽国国境には念珠関がそれぞれ設置された。このうち、念珠関・白河関・勿来関を「奥羽三関」という。
[編集] 中世
中世には、朝廷政権や武家政権、荘園領主・有力寺社などの権門勢家がおのおの独自に関所を設置し、関銭(通行税)を徴収した。室町時代には京都七口関が設置され、京都に入るにはいずれかの関所を通行せざるを得ない状況が生まれた。
戦国時代には、各地の戦国大名が領国の一円支配を強めた結果、多様な主体が銘々に設置する関所は否定され、次第に減少していった。天下統一事業を遂行した織田信長・豊臣秀吉は、関所の廃止を徹底して実施した。
[編集] 近世・近代
江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。主な関所には、東海道の箱根関や新居関や鈴鹿関、中山道の碓氷関や福島関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関などがある。
これらの関所を通行しようとする者は、通行手形を提示し、関所による確認を受けた。特に江戸から西方へつながる東海道沿いの関所では、女性と鉄砲の通交が厳しい制限を受けていた。これを「入り鉄砲・出女」と言うが、江戸在住の大名の妻が密かに領国へ帰国することと、江戸での軍事活動を可能にする江戸方面への鉄砲の流入の2つが、幕府によって厳重に規制されたのである。また、芸人や力士などは通行手形の代わりに芸を披露することもあった。関所破りは重罪とされ、磔刑に処せられた。
日本における関所は、1869年(明治2年)に完全に廃止された。