長谷川祥之
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長谷川 祥之(はせがわ よしゆき、1969年2月11日 - )は、京都府宇治市出身の元サッカー選手。ポジションはFW。現在は鹿島アントラーズジュニアユースコーチを務めている。
長谷川が決めればチームは負けないという伝説も残している(リーグ戦では長谷川が点を入れた試合は34連勝)。 黒崎久志、奥野僚右、大野俊三、本田泰人やサントス、そしてジーコなどと鹿島の第一黄金期を築いた功労者の一人。
1996年にはじまる第二期黄金期においても息の長い活躍を続け、マジーニョや柳沢敦、平瀬智行らと先発ポジションを争い続けた。
1999年頃から先発出場の機会は減ったが、その後もスーパーサブとして存在感を保ち、選手としてはもうピークを過ぎているであろう後も鹿島のサポーターの間では長い間人気を博していた。
目次 |
[編集] 選手経歴
[編集] Jリーグ通算成績
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1992年 | 鹿島 | J | - | - | - | 9 | 7 | 3 | 1 |
1993年 | 鹿島 | J | - | 30 | 9 | 5 | 3 | 5 | 4 |
1994年 | 鹿島 | J | - | 43 | 21 | 0 | 0 | 1 | 0 |
1995年 | 鹿島 | J | - | 42 | 16 | - | - | 4 | 2 |
1996年 | 鹿島 | J | - | 25 | 12 | 11 | 0 | 3 | 0 |
1997年 | 鹿島 | J | 11 | 27 | 7 | 11 | 4 | 2 | 1 |
1998年 | 鹿島 | J | 11 | 26 | 14 | 4 | 3 | 4 | 0 |
1999年 | 鹿島 | J1 | 11 | 21 | 4 | 7 | 2 | 0 | 0 |
2000年 | 鹿島 | J1 | 11 | 8 | 1 | 5 | 0 | 1 | 0 |
2001年 | 鹿島 | J1 | 11 | 11 | 2 | 6 | 1 | 1 | 0 |
2002年 | 鹿島 | J1 | 11 | 25 | 3 | 8 | 3 | 3 | 0 |
2003年 | 鹿島 | J1 | 11 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
通算 | - | - | - | 261 | 89 | 66 | 23 | 27 | 8 |
[編集] プレースタイル
上背がそれほどあるわけではないが、ヘディングが得意。「空中に留まることができる」と言われた垂直飛び70cmオーバーのジャンプ力で数多くのゴールを生み出した。足技はそれほど上手なほうではなく、よく「低い弾も頭で行ったほうが入る」などとの皮肉も言われた時期もあったが、ワンタッチでゴールを決めるポジショニングのよさは、ヘディングに限らず足でのゴールにおいても発揮され、鹿島アントラーズ歴代1位のゴール数を誇る。 レオナルドやジョルジーニョが在籍していた時期には、彼らが繰り出すロングフィードの受け手であるポスト役は常に長谷川の役目であり、鹿島第一期〜第二期黄金期のターゲットマンとしても貴重な存在だった。
現役末期には慢性的な膝の故障を抱え往年のジャンプ力を失ったが、ファイト溢れるプレーと持ち前の決定力でスーパーサブの役目を果たし、2002年日韓ワールドカップに向けて改修されたカシマスタジアムのこけら落とし試合(2001年5月19日、柏レイソル戦)では、満員のサポーターの前で劇的な延長Vゴールを決めている。
[編集] 日本代表での成績
国際Aマッチ6試合0得点
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