袁尚
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袁尚(えんしょう、生年不詳-207年)は、中国、後漢末の政治家。後漢の大将軍・冀州牧、鄴侯袁紹の少子にあたる。字は顕甫。
母は劉氏で、兄の袁譚とは異母兄弟であろうと思われる。劉氏が袁尚を愛しんだことと、袁紹の死後に郭図らが袁譚を支持したこともあり、次第に対立した。
建安七年(202)、袁紹が病に倒れると、逢紀と審配らに推されて袁尚が袁紹の位を継ぎ、また爵位も嗣いで大将軍・冀州牧となり、鄴侯を嗣いだ。袁紹死後、曹操が冀州を攻めたが、この際、黎陽にあった袁譚が車騎将軍を称したことで袁尚は不信感を抱くようになった。一度は曹操を破ったが、曹操が去ると、郭図らが袁譚を脅して袁尚と対立させついには軍事行動に発展した。この兄弟間の内紛を曹操に付け込まれ、袁尚らは曹操にまで攻められる事となる。袁尚はこのとき曹操に降伏を申し出るが、拒絶され、中山に逃走した。そこを今度は兄の袁譚に攻められ、袁尚はもう一人の兄である袁煕を頼って落ち延びた。そこでも焦触・張南に裏切られ、兄の袁煕とともに烏丸を頼って長城の北に遁走する。だが、その烏丸もまた、長城を越えてやってきた曹操軍に打ち破られてしまう。
最終的には遼東の公孫康のもとへ落ち延びたが、遼東にも曹操は圧力をかけ迫った。このため、袁尚は公孫康から兵権を奪って曹操と戦おうとしたが、逆に公孫康に殺されてしまった。袁煕、袁尚の首は公孫康によって曹操のもとに送り届けられたという。