追手門学院小学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
追手門学院小学校 | |
開設 | 1888年(明治21年)4月3日 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人追手門学院 |
旧称 | 大阪偕行社附属小学校 |
教育理念 | 社会有為の人材の育成 |
校長 | 津田克彦(2006年4月1日就任) |
創立記念日 | 5月29日 |
共学・別学 | 男女共学 |
所在地 | 〒540-0008 大阪府大阪市中央区大手前1丁目3-20 |
電話番号 | 06-6942-2231 |
FAX番号 | 06-6946-6022 |
外部リンク | 追手門学院小学校のホームページ |
追手門学院小学校(おうてもんがくいんしょうがっこう)は大阪府大阪市中央区にある私立小学校である。設立は明治期で、旧日本陸軍将校により作られた財団偕行社の附属として、主に軍部将校子弟の教育を目的とした男子校であったが、戦後は平和主義に徹し共学校として再スタートをした。幼稚園から大学院まである、学校法人としての追手門学院の中心的な学校組織である。
教員は大阪教育大学出身者が多い。
目次 |
[編集] 沿革
- 1888年(明治21年)4月3日:大坂鎮台(のちの第4師団)司令官高島鞆之助(後の陸軍大臣)により、大阪偕行社附属小学校を創設。当時の設立母体は、財団法人大阪偕行社 。
- 1890年(明治22年)4月 大阪府知事より私立学校としての認可を受ける。
- 1892年(明治24年)9月 創設者 陸軍大臣高島鞆之助来校。
- 1941年(昭和16年)4月:大阪偕行社学院国民学校に改称。
- 1945年(昭和20年)8月15日:ポツダム宣言受入により財団法人偕行社自然解散。
- 1945年(昭和20年)8月:大阪偕行社学院小学校に改称。
- 1946年(昭和21年)4月:大阪偕行学園小学校に改称。共学化。(GHQの指示があった)
- 1947年(昭和22年)3月:大手前学園小学部に改称。
- 1947年(昭和22年)4月:中学部新設。
- 1947年(昭和22年)11月:追手門学院小学部に改称。
- 1950年(昭和25年)4月:高等部新設。
- 1966年(昭和41年)4月:大学創設。
- 1971年(昭和46年)4月:追手門学院小学校に改称。
- 1989年(平成元年)2月:住居番号変更 大阪市東区京橋前之町2番地から大阪市中央区大手前1丁目3番20号へ(住居番号変更のみで実際の場所は同じ)
- 1994年(平成6年)4月:学校週5日制(月1回)実施
- 1998年(平成10年)4月:本館竣工
当学校は最初に小学校が設立され、大学が創設されたのは開学以来、約80年後である。
[編集] 進学の状況
小学校の卒業生は難関中学へ進学する者も多い。幼稚園から大学院までこの学校法人にはあるが、小学校からエスカレーター式に大学まで進学する者は皆無であり、同学院の中学校へ進学するものも10%未満となっている。 6年生の11月ごろになると4クラスを志望校別に分けて授業をするようになる。 3泊4日で夜12時すぎまで1日10時間以上勉強する”学習合宿”などもあり、学校としても中学受験を奨励している。
[編集] 著名な卒業生
[編集] 教育の指針
- たかい学力
- つよいからだ
- ねばりづよい心
- しんせつ
[編集] 特色
校門を入るとき全員が一礼することになっている。 礼は『自己の存在を確認し自己敬愛の心を培う』との創立以来の精神からである。
学校内に持ち込み可能な金銭は230円までと決まっていて、 その用途は電車賃に限られている。
クラスは4クラスで『い』『ろ』『は』『に』で称される。クラスカラーは、『い』→赤『ろ』→黄『は』→緑『に』→青である。 また入学時の期生で呼ばれる。2006年の入学生は123期生である。 記名の時は”123期 X川○男”と表記するので、在学中学年が上がっても卒業後も、変更することなくわかるので大変便利である。
『良い教育は良い環境から生まれる』との信念から設備は充実しており、既に1962年(昭和37年)より全教室にテレビが配置され、当時としては最新鋭の学校放送設備が配置された。創立110周年に立てられた、記念ホールの屋上にはプールが配置され大阪城天守閣が目の前に見えすばらしい。しかし、質素倹約の精神から、給食は通常の公立小学校と同様なものとなっている。
国際交流もなされており、夏休みにはオーストラリアのブリスベンへ、春休みにはハワイへ希望者(定員を超えれば抽選)がホームステイする事ができる。
[編集] 校友会
校友会は山櫻会(やまざくらかい)という名称で活動をしている。山櫻会報という会報が卒業生全員に届けられる。