足利満貞
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足利 満貞(あしかが みつさだ、? - 永享10年(1438年))は室町時代中期の武将。稲村御所(稲村公方)と呼ばれる。第2代鎌倉公方・足利氏満の子。第3代鎌倉公方・足利満兼は兄。他に足利満直、足利満隆の兄弟がいる。
室町幕府と鎌倉府が和解し、1399年(応永6年)陸奥国、出羽国が鎌倉府の管轄となったため、兄満兼の命により陸奥国岩瀬郡稲村に下向し、稲村御所(稲村公方)と呼ばれる。同時に兄弟満直も陸奥国安積郡篠川に下向し、篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。両御所は鎌倉府の出先機関として陸奥の国人勢力を統合し、伊達氏や斯波氏といった反鎌倉府勢力に対抗するのが主要任務だったと考えられる。岩瀬郡は二階堂氏の勢力圏で、満貞は二階堂氏や安積郡の伊東氏、白河郡の白川氏などと連携してたびたび伊達氏と衝突している。
鎌倉公方が持氏に代替わりすると、篠川御所満直と持氏の関係が悪化し、満直は幕府と結びつく。それに伴い1424年(応永31年)11月、稲村御所満貞は鎌倉に退去した。持氏は公方家伝来の宝物を譲るなど満貞を歓待した。1438年(永享10年)に発生した永享の乱では持氏に与力し、鎌倉で自害している。